昨日は肌寒い小雨の日曜日だった。そして記録的な大雪がもたらした庭の積雪はほぼ二週間ぶりに完全に姿を消した。庭の主のように長時間滞在するヒヨドリがいる。シジュウカラもときおり姿を見せる。これまで庭ではあまり私の目に触れることがなかったメジロやムクドリも姿をみせている。地域の環境が悪化して、小鳥たちの食べ物が少なくなっているせいかと心配になる。二十四節気の「雨水」は雪が雨へと変わり氷が解けだす頃のことだ。そしてこの木曜日には早くも「啓蟄」を迎える。
私が見舞われた突発性難聴は、片方の耳が補って日常の会話などにそれほど大きな支障をきたしているわけではない。一時期かなり改善したかに思われたが一進一退を繰り返している。処方されているのは、血管を拡げる薬と末梢神経の障害を改善する薬の二種類である。医者は劇的に効果が顕われるというわけではありませんと申し訳を言う。聞こえなくなった音域を脳が補完するそれが耳鳴りとなるという説が有力だそうだ。私にとって大切なことは、血のめぐりを良くすることのようだ。
若い緩和医療医が書いた記事を読んだ。その中で「来る日も来る日もこれが人生最後の日と思って生きるとしよう。そうすればいずれ必ず、間違いなくその通りになる日が来るだろう」という言葉が紹介されていた。たしかに若いうちは自分が死と隣り合わせにあることを忘れずにいることは困難だ。しかしその日が近い高齢者ならばごく自然に持ち続けている気持ちではなかろうか。また「人は最期を迎えるとき、大なり小なり何らかの<やり残したこと>を抱いていて、その後悔こそが患者さんの心理的苦痛の一つの要因になっているようです」とある。
その後悔を少なくするにはどうするか。ドイツ人の哲学者の「自分が大切にしていることを十個、ノートに書きだしてみて、それにどれだけ時間をかけているか割り出すことが大切」という提案を紹介していた。ふだんから自分の内なる声に耳を傾けることが大切ということだ。そこで私にとって大切にしていることはなんだろうかと考えてみた。困ったことに私は二つのことぐらいしか思い浮かばない。私はある人から最期はどんな言葉を残しますかと聞かれて「グッドバイ」だと答えた。そして「ありがとう。でしょう!」とたしなめられたことがある。(写真は日展会場にて)