暑さも和らいできたある日のこと、久しぶりに一人で電車に乗った。平日の午前10時頃で立っている乗客は少ないが、それでも座席はすき間なく埋まっている。全員がマスク姿以外はこれまでと変わりない風景だ。目的は、日本民芸館の初めての見学である。吉祥寺駅で渋谷行きの京王線に乗り換える。11時を少し過ぎていた。そうだ彼の店でカレーを食べようと思い立ち、駒場東大前の二つ手前の下北沢で途中下車した。
電車の中で彼の名が松尾であることは思い出した。下の名がなかなか出てこない。店の名はそれ以上に困難。どこかで案内図が手に入らないかと駅の北側の街を歩いてみた。初めからそのつもりならパソコンで下調べをしてきているところだ。ちいさな洋品店の店先に出てきた若い女の子に聞いてみた。奥に探しに行き案内図はないという。「オーナーが松尾であるカレーの店を捜している」と食い下がる。ちょっと待ってと再び奥に引っ込む。
スマホを片手に再び出てきた。いろいろ操作している。ちらりと「松尾貴史」の文字が見えた。そう貴史だった。探し当ててくれたらしい。更に地図を表示させる。店の名は「パンニャ」という。すぐ近くらしい。最大限の謝辞を述べて歩き出したが、指示を聞き違えたらしく迷ってしまった。こんどは高校を卒業したばかりぐらいの若いカップルに、この近くに「パンニャ」という店を知らないか尋ねた。とっさに二人ともスマホを取り出す。すぐそこのようですからと店の前まで案内してくれた。
男の子が「開店は11時半で、あと5分ほどです。ゆっくり楽しんでください」と言って立ち去った。下北で育った子にちがいない。パンニャの斜め向かいにはコーヒー店があり、店の外には小さなテーブルが並べられ、常連とおぼしき人たちがくつろいでいる。その中に特異な容貌と独特の存在感のある俳優の「柄本明」がいて、扉の陰の席で新聞を読んでいた。私と目が合いそうになって彼は瞬時に目を伏せたように見えた。後で調べると柄本明は24歳のときから下北沢に住んでいる。しばらくあたりをひとまわりして、パンニャの扉を押して中に入ると店内はやけに暗い。奥から「今日は定休日だよ」の声がした。