8月15日に放送されたBSスペシャル「終戦75年特集」を再放送で見た。NHK鹿児島放送局の制作である。米軍を指揮していたのは米陸軍参謀総長ジョージ・マーシャルで、その資料館がバージニア州にある。6月に沖縄を制圧した米軍は九州南部、吹上浜、志布志、宮崎に上陸する作戦だった。日本軍は11月1日の上陸を想定し、志布志ではゲリラ戦を展開するための16㎞の地下壕が掘られた。
日本は女性や子供までも動員して戦い抜く、一億玉砕を主張していた。機密文書には「すべての日本人が武装した兵士となった。もはや日本に一般市民はいない。一人でも多く探し出し殺害する」とある。南九州上陸のために、輸送網や、軍需工場、特攻基地の徹底した破壊が行なわれた。3月から8月にかけて川内など鹿児島大空襲では3千人余りの死者が出た。(小平市中央公園のメタセコイヤ)
作戦は広島、長崎の原爆投下後も続けられていた。南九州に上陸する3つの軍団は、それぞれ3つの原子爆弾を用意する計画だった。当時0歳だった私は川内の近くに疎開していたと聞く。上陸地点の近くだから危険な場所に疎開していたわけである。敵の戦車の下に潜り込んで手榴弾をキャタピラに投げ、走って塹壕に逃げる訓練をしていたという当時13歳の義勇兵の川辺町の前橋竹之さん(88歳)の証言は胸に響いた。
「皇国の安危は諸君の双肩にかかっている。本土防衛のため薩摩半島は重要な位置になった。今後一身を呈して国家に忠誠を尽くしてもらいたい」と陸軍大佐は語ったという。「戦争は一度始まると、人権は無視されて国の維持が中心になる。ひとりひとりの命が盾にされてしまう。戦争はドミノ倒しのように一度崩れると止められない」「あのね・・・。あれは75年前の戦争じゃない。今でも起きうる。何かの拍子で起きるような気がする」