フジモリ氏は熊本から移民した両親の元、1938年リマ市で生まれてのち勉学を果たし、知的エリートから90年大統領にまで登り詰めた、いわゆる立志伝中の人として、又現地の日本大使館公邸では大使と共に暴徒を鎮圧した大統領として私の中にあった。(日本のジャイカが寄贈した診療所)
それ故なぜ、国際会議の帰途日本に亡命しなければならなかったか気になっていた。大統領になりフジショックといわれる経済の立て直しや、国内の混乱の歯止めに実績を上げていた筈で、同情的な気分ですらあった。パナマを離れてペルーに向かう今、再び向き合う問題となった。(貧富の差が極端な結果治安も悪い。富裕層、観光客向けの公園には「地上絵」が模写され植栽されていた。公園の先は切り立つ太平洋)
このBoatが初めてペルーを訪問したのは96年12月。トゥパク・アマル革命運動が日本大使公邸を占拠している最中で、約100名のboat参加者が公邸前で平和的解決を求めてアピールしたそうだ。2度目の立ち寄りは2000年11月、訪日中の彼が大統領辞意を表明した直後で、「大統領がペルーに戻るよう日本政府に働きかけて欲しい」との要請を受けている。NPOの立場からBoat側は「公正な裁判をうけるよう働きかけているグループ」に属していた。(夕食の間合いに、コンドルは飛んでいくの音曲で馴染みの竹製の楽器演奏=壇上=に乗せて、民族衣装華やかにプロ集団が舞うのを鑑賞)
洋上で学んだ事は改革断行のため権限の強化と乱用。大統領3選に向けてペルー憲法に抵触しかねない強引な手法や現金授受の事実。大使公邸人質事件では投降した人質の虐殺。公正な裁判の遺棄。法律改正前とはいえ元首の2重国籍(日本国籍=藤森謙也)問題・・等であった。(スカイダイビングに興じているのは地元の富める人たちであろうか)
05年6月次回のペルー大統領選出馬を表明していたフジモリ氏は、同年11月極秘出国してサンチャゴ入りし、7日チリの警察に身柄を拘束された報に接した(私達が丁度ペルー滞在中であったが知ったのはペルーを出てチリ入国直前だった) つまり同時間帯にチリに居合わせた事になる。その後国民はペルーへの強制送還を求めたがチリ政府は法的解決を模索し、結果的には06年1月ペルーの選官は大統領選への出馬を認めないとした。今は支援者である日本人の女性実業家と結婚しサンチャゴの自宅で暮らしているという 。 当年68才。移民の子としての思いや日本の援助の引き出しも大きく左右しての事だろう。タイでは先日タクシン首相が訪米中にクーデターが起こり、イギリスへの出国を余儀なくされた。(日系移民の1,2,3世と交流するため移動するバスからみた貧民層街。地方から野放し状態で都市に流れ空き地に次々と掘っ立て小屋を立て住み着く。小屋は丘の上まで延びていた。こんな人達には絶大な支持があり、彼の帰国を待ちわびているとガイドの説明あり)
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