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『手法』について/鷲見和紀郎《FUSULINA Deux》藤井 匡

2016-12-01 09:37:20 | 藤井 匡
◆ 鷲見和紀郎《FUSULINA Deux-B》100.5×44×4.5cm/油彩・エナメル樹脂・アルミフレーム/2001年

2001年10月1日発行のART&CRAFT FORUM 22号に掲載した記事を改めて下記します。

『手法』について/鷲見和紀郎《FUSULINA Deux》 藤井 匡


 鷲見和紀郎の個展《FUSULINA Deux》(註 1)にて発表された作品は全て「支持体の上に顔料が乗る」形式が採用されており、壁面展示がなされていた。この目の前の出来事に基づくなら、これらは紛れもなく絵画と見なされるだろう。これまでの絵画と呼ばれてきた作品と形式上極めて類似しているのだから。しかし、そのように見るときに、見えなくなるものがある。それは、これらの作品が「鷲見和紀郎」という固有名のもとで呼ばれることと結びついている。
 美術におけるジャンル――絵画・彫刻・それ以外といった――は、多様性をもった作品を分類し整理する機能を備える。その意味での有効性はありながらも、そうした分類を前提として作品を見るならば、確実に見失われるものがある。それは、その作品が何故、作者名・作品名という固有名をもつのか、という問題である。(註 2)
 その作品が固有名で呼ばれる必然性は、作品を導いてきた固有の歴史の中にある。それを確認する必要性は、オリジナリティという他律的な価値を見いだすためにあるではない。他の何にも置き換えることのできない何かがあることを確認するために必要となる。

 《FUSULINA Deux》の表面は以下の手順によって制作されている。まず一方で、油絵具を混ぜておいたエナメル樹脂によって金属(一部はキャンバス)の上を覆っていき、支持体の上には樹脂の厚みを出現させる。そして他方では、こうしてつくられた表面を研磨し、下層にある色彩を表へと露出させていく。この二つの作業を反復する中から最終的な表面が取り出されてくる。その際に表面上に位置する色彩によって、茫洋としたかたちが知覚されることになる。
 表面の研磨は、これまでの作者の彫刻(床置きの作品)でも行われていた作業だが、今回は彩色を仕込み表面上にイメージを立ち上げることから、表面は二次元へと変換される。こうした変換が作品を絵画的に見せる最も大きな要因となっている。しかしながら、この表面は積極的に二次元=平面という認識からはみ出そうとする。
 緩やかに湾曲する表面は視線を中心から周囲へと引っ張っていき、金属フレームの存在を強く意識させる。同時に、表面の膨らみは裏側の存在を想起させることになる。こうして実在感がもたらされることによって、作品を取り巻く空間は抽象的なものとは感じられなくなる。作品が展示される壁面は建築の一部分であり、外側(壁の裏側)にも空間が実在するものとなる。こうした空間の出現が、作品の二次元=平面というフィクションを破壊する。
 また、表面の色彩は塗られたもの(支持体の上に平行に置かれたもの)ではなく、塗布と研磨とを往還する中から出現したものであることも作品の実在感に寄与する。ここでの色彩はエナメル樹脂の厚みと強く結びついており、色彩の違いを追う視線は平坦に流れるのではなく、表面を滑らかな凹凸をもったものとして知覚することになる。作品の表面はイメージを生みだすと同時に、エナメル樹脂の物質性を主張する。
 したがって、これらは絵画的な形状を持ちながらも、彫刻の表面を巡る問題意識から演繹される、彫刻の延長にあるものとも見なすことができる。表面の表面性が独立的に取り出されている彫刻。そして同時に、その表面は絵画的なイメージをも産出する。
 彫刻であって絵画であるもの、あるいは彫刻と絵画との中間にあるもの――絵画・彫刻という分類に固執するならば、おそらくはそう定義されるのだろう。しかし、分類が前提にあるのではなく、表面に対する問題意識を巡る様々な要素の関係が織り込まれて《FUSULINA Deux》の存在様態は決定される。こうした表面の固有性は固有の歴史によって導かれてきた。

 《終わりなきヴェール》(1999年)は鋳造アルミニウムによる楕円形の幕(ヴェール)が立てられた作品である。表面には滝のように流れ落ちるイメージを喚起する水滴のついたようなテクスチュアが与えられ、裏面には黄色が塗装される。
 楕円形は二つの弧から構成され、一方には外側に表面・内側に裏面、他方には外側に裏面・内側に表面が設えられる。表裏の面が途中で反転するために、この幕は作品の内側と外側とをメビウスの帯のように繋いでしまう。ここでの表面は楕円形というかたちを喚起するするものではなく、作品の内側と外側とを横断するような表面自身の連続性をつくりだす。
 このヴェールとしての表面とは特異な位置をとる。自立できない(固有のかたちをもたない)ヴェールという認識は背後を持たない表面だけが存在する状態を示す。実際に《終わりなきヴェール》の前に立てば、意識は表面の向こう側にではなく横方向へと連続的に流れていき、楕円の湾曲に沿って立つ位置を変えながら見ていくように誘われる。
 こうした表面への着目は作者の経験に基づく――〈私は金属を長く扱ってきて、いかに表面が重要であるか気づかされました。空間性はもちろんのことですが、彫刻とは表面である、と言っておきましょう。〉(註 3) 1980年代以降の鷲見和紀郎の制作の中心を成してきたのが、金属鋳造による彫刻である。この間、ワックスや石膏による作品も制作されているが、これらの素材も鋳造の「原型-鋳型-鋳物」という地点から導かれる。鋳造では最終的には原型の最も外側のみが提示されるため、制作の時間と意識とは表面へと収斂する。「彫刻=表面」の認識は、鋳造という技法を内省的に問うことに由来する。
 《終わりなきヴェール》の原型は、最初に弧のかたちを発泡スチロールでつくり、そこにワックスを使って表面のテクスチュアを生みだしていったものである(その際の裏側に当たっていた部分が黄色く着色されている)。つまり、このワックス原型そのものが引き剥がされた表面なのである。そうした表面が、アルミニウムに鋳造される(更に表面が引き剥がされる)ことで表面の表面性に更に強度が与えられる。
 半透明なワックスでは幾らかの視線を内部へと導くものの、その原型が金属に置換されたときには視線は表面において徹底的に弾き返される。そのために視線は奥にではなく、表面の湾曲に沿って横へ横へと繋がっていく。楕円形の内部はそれ自体が量塊となって立ち上がることはなく、作品によって周囲に彫刻的な空間が出現することもない。ここで視線は表面の奥に量塊を知覚するのではなく、表面の表面性に留まる。

 《FUSULINA Deux》の表面は《終わりなきヴェール》の表面の延長上に位置する。それは、鋳造の意味が問われてきた場所の延長である。
 《FUSULINA Deux》の表面上のイメージは、フズリナの化石を内包した石塊の断面に類似する。フズリナとは約3億年前の地層から発見される紡錘形の虫の化石であり、かつての作品《FUSULINA》(1999年)――ここで使用される石膏は鋳造の際の中間素材であることから析出される――が紡錘形を採った際に名づけられた。形態に関しては《FUSULINA Deux》でも紡錘形のフレームが与えられる。そこから、更に問い続けることによって、形態だけではなく表面の在り方や研磨という手法とも関係を築くことになる。
 岐阜出身の作者は子供の頃に大垣市の金生山でフズリナなどの化石を採取していたという。割り出した石灰岩の表面を研磨して化石の断面を露わにしてゆく作業の記憶が作品の手法に重ねらるが、その記憶は利用可能な中から任意に取り出されてきたものではない。ここでの化石は〈気の遠くなるような時間のなかで、生物が固形になる自然の鋳物〉(註 4)と読み替えられており、その読み替えは〈金属を長く扱って〉きた経験によって可能となる。鋳造という技法を内省的に問うことによって、化石と作品とは結合する。
 通常、金属鋳造は彫刻を成立させるための一過程に過ぎないもので、彫刻の下位に従属している。しかも多くの場合は発注される過程であり、制作として意識されることすらないケースもある。その鋳造を内省的に問うならば、作品は通常の彫刻と呼ばれるものを突き壊していく。作品にジャンルとしての絵画・彫刻を覆い被して見るならば、この固有性は消失する。逆に作品を絵画・彫刻の外側に置くならば、問われてきた歴史を見失わせる。この、類に解消できないものがあるために、ここには個としての作者の名が冠される。
 作品の通ってきた歴史を追うときに、作品の単独性が見えてようになる。そして、作品を見ることによって破壊されるのは絵画・彫刻といったジャンルではなく、そのような分類に従属して見る者の、立っている場所だと知らされる。


註 1)鷲見和紀郎《FUSULINA Deux》2001年3月31日~4月21日,島田画廊(東京都世田谷
   区)
  2)下記のものを参考にした。
   柄谷行人「単独性と個別性について」『言葉と悲劇』第三文明社 1989年
  3)「[特集]現代彫刻の発言」『BT美術手帖』1988年6月号
  4)「Ars/Technae|創造の現場から[11]鷲見和紀郎」『BT美術手帖』1999年6月号