◆ 戸田裕介《人間は神話を捨て去ることが出来るのか―Ⅱ》H 680×W 260×D 180cm/ステンレス、花崗岩、鉄製ワイヤーロープ/2001年
2002年4月10日発行のART&CRAFT FORUM 24号に掲載した記事を改めて下記します。
『手法』について/戸田裕介《人間は神話を捨て去ることが出来るのか―Ⅱ》 藤井 匡
ある美術作品を見る。そこで見る者は、例えば作者の意図といった作品の意味を求める。しかし、この行為は暗黙にひとつの態度を前提とする。それは、世界全体には最終的な意味や目的が存在し、したがって美術作品にも確実な意味が存在するという世界像である。それは、例え擬人化されなくとも、世界全体を制作=創造した超越者へと世界を収斂させる。つまり、超越者の存在さえ解ければ、世界全体が解けるかのように思考される。
冒頭のような態度は、世界を制作した超越者像を美術家に投影したものである。ここでは、現象(世界/美術作品)の背後にあるべき本質(超越者/美術家)の方が重要なのである。こうして、超越者と美術家とは入れ子状の関係に置かれる。人間の制作物の意味は、世界全体の意味の一部に位置づけられる。逆に、その意味を確認することで、作品を包括する世界全体の意味(その正体が不明だとしても)が確認される。こうして、部分と全体とは相互補完的に意味によって体系化された世界像を保証する。
特に、用途や顧客などを保留したまま考察される“純粋”美術では、制作者は作品に対して全権の決定を行うという考えが前提となっている。しかし、制作者は物理的や政治経済的などの現実の諸条件の中で作品を制作している。したがって、作品に対して神のように君臨することはあり得ないはずである。(註 1)
この現実を直視するならば、理念化された創造者ではなく、現実の中の制作者像が見えてくる。こうした作者は、制作の前と後とで決定的な意味の変容を発生させるのでなければ、作品によって特別な能力を提示するのでもない。ただ、現実の中で起こる出来事を提示するだけである。
戸田裕介は1990年代の初頭から、スケールの大きな野外彫刻を制作してきた。それらはステンレスを石で押し潰したり、石を挟んで押し広げたりしたものである。構成的な性格が強く出される一方で、形態や表面に作者自らが手を加える比重は抑えられている。そのために、素材の物質性がストレートに出されたものとなっている。
こうした素材への関わり方は、「作者が全てを決定した作品」という枠組みで理解するのを困難にする。物質という、作者の外部にある要素を無視できないためである。戸田裕介の作品は、作者へ収斂していくという認識のされ方から逸脱しているのである。
《人間は神話を捨て去ることが出来るのか―Ⅱ》(2001年)は、7m近いステンレス・パイプを縦方向に三分割し、その内側に10トン弱の花崗岩を挟み込んだ作品である。金属は曲げる力に対して強い反発力をもち、一方で石は圧倒的な圧縮力を所有する。このため、押し広げられたステンレスの元に戻ろうとする力と圧縮に耐える花崗岩のソリッドな力が拮抗し、二つの力がせめぎ合う緊張感が発生する。
この構成では整合性を与えるのが目的とされていない。対立する力そのものが作品成立の第一要件として提示されている。二つの力が釣り合っているために表面化しないが、現状を打ち破ろうと潜在する力の危険性が内包されている。こうした緊張感を前景化するために、形態や表面などの作者の管轄に収まる要件は重要視されていないのである。
この力の存在は、制作方法に多くを負うことになる。制作過程ではこの力が全面的に発露されているからである。作者は手順として、最初にパイプの上部を鉄ワイヤーで縛ってから石の上方にセットする。次に、上から圧力を掛けてステンレスの間に石を押し込んでいくのである。
単純ともいえる工程ではあるが、スケールや重量を考慮すれば簡単なことではない。実際には、ステンレスの三箇所の隙間をジャッキで押し広げ、上から10トン以上の圧力を掛けて少しずつ押し込んでいく、厖大なエネルギーを要するものである。作品は、強大な力と抵抗感の中から立ち上がってくるのである。
作者は制作という作業を通して、身体感覚を超越する物質と対峙することになる。ここからは「素材を生かす」といった意識はもたらされない。作品の重量や石に掛かっている圧縮力は、手を使って素材に関わる意識とは遥かに乖離しているからである。
例えば、ステンレス・ステールは人工的な素材、石は自然的な素材と分類される。用途に適するように一次加工された素材は一度人間的なレベルに変換されており、扱いやすい存在となっている。このために、ステンレスは未加工の石とは異なった階層に属している。こうした物質を統制しようとするプロセスの有無が、素材の人工/自然を分節する。
しかし、《人間は神話を捨て去ることが出来るのか―Ⅱ》では、どちらの素材も巨大な重量と圧縮力/反発力を形成する要因である。人間の扱える範囲を超えるという同じ範疇に収まり、どちらも作者の人間性に親和することはない。戸田裕介の素材の関わり方からは、人間を尺度とする人工/自然の分節は無効化されることになる。
ステンレスと石は共に、作者にとって自我が十全に達せられることのない、他者として存在する。逆に、こうした素材の他者性に直面する目的から、戸田裕介はスケールの大きな野外彫刻を制作していると考えられる。スケールが大きくなることで素材の扱いは比例的に困難になる。その分だけ素材の他者性は直接的に露呈されるのだから。
作品の現れ方は素材の物質性に依存する。つまり、作品は作者の意識云々ではなく、物理的な条件などによってそうあるしかない姿を見せる。体感している現象の背後に、本質という意味によって体系化された世界は存在していないのだ。作品は理念によって規定されるものではなく、多方向に流れようとし、混沌へと繋がっていこうとする。
《人間は神話を捨て去ることが出来るのか―Ⅱ》における制作とは、無から有を生み出す創造ではない。素材の物質性を表面化させる方法を設定し実行し、他者としての素材と出合う場所に立つことである。制作は他者に直面するころで、制作前のイメージを裏切りながら進行していく。素材は作者自身の思い通りにならないものとして選ばれ、最後まで思い通りにならないままに置かれるのである。
この制作方法から生まれる作品では、厳密な意味での形態が作者の手を離れている。石とステンレスの関係からどのような形態が出現するかは、鉄ワイヤーの縛り具合や不整形な石のかたち、掛けられる圧力の強さや方向などに依存する。こうした複雑な要素が絡んだものを、事前から完全に予測することはできない。
加えて、力のせめぎ合いの中で作業は進行するためにリセットが効かない。制作過程においては、起こってしまった出来事は決定的となる。仮に、出現した形態が思い通りにならないとしても、その現実を受け入れるより他はない。時間の不可逆的な進行に直面することからも、やはり制作は理念の中に留まりはしない。
もちろん、手直しの効かない方法であることや、安全性に考慮が必要な作業であることから、方法は綿密に練り上げられている。事前に頭の中では構想から完成に至るプロセスは揺るぎなく明確化されている。このため、事前に思い描く作品像と現実に生じた作品との間には極端な差異は発生しない。しかし、この些細な差異が作者と作品とを決定的に分離する。それこそが理念化されることのない、現実に由来するからである。
この観点からすると、作者と見る者とは同じ場所に立っていることになる。作者ですら作品の姿は事後的にしか知ることができないのだから。(註 2) こうした立場から作品を生み出す姿勢は、制作=創造という固定観念を排除して、作品の意味そのものを問い直す場所から出てくるのである。それは、意味として読み尽くされる作品像を疑う場所に立つことに他ならない。
現実としてそうあるしかない姿として提示される作品。それは、意味によって構成された世界とは異なった文脈にある。戸田裕介の作品が、仮に暴力的に感じられるならば、単に巨大な物質の放つ力によるだけではなく、それが体系化された意味のシステムを停止させることよってである。
こうした作品が現前することで、創造者に統制された世界像は宙吊りにされる。ここから、見る者は意味として読み尽くされる世界像を疑う場所に導かれていく。
註 1)柄谷行人「建築の不純さ」『批評空間』website 2001年10月
http://www.criticalspace.org/
2)戸田裕介は作品を制作する理由を「何よりもまず自分が見たいから」と言ったことがある。この発言では作品コンセプトと実際の作品とが別物だと意識されている。
2002年4月10日発行のART&CRAFT FORUM 24号に掲載した記事を改めて下記します。
『手法』について/戸田裕介《人間は神話を捨て去ることが出来るのか―Ⅱ》 藤井 匡
ある美術作品を見る。そこで見る者は、例えば作者の意図といった作品の意味を求める。しかし、この行為は暗黙にひとつの態度を前提とする。それは、世界全体には最終的な意味や目的が存在し、したがって美術作品にも確実な意味が存在するという世界像である。それは、例え擬人化されなくとも、世界全体を制作=創造した超越者へと世界を収斂させる。つまり、超越者の存在さえ解ければ、世界全体が解けるかのように思考される。
冒頭のような態度は、世界を制作した超越者像を美術家に投影したものである。ここでは、現象(世界/美術作品)の背後にあるべき本質(超越者/美術家)の方が重要なのである。こうして、超越者と美術家とは入れ子状の関係に置かれる。人間の制作物の意味は、世界全体の意味の一部に位置づけられる。逆に、その意味を確認することで、作品を包括する世界全体の意味(その正体が不明だとしても)が確認される。こうして、部分と全体とは相互補完的に意味によって体系化された世界像を保証する。
特に、用途や顧客などを保留したまま考察される“純粋”美術では、制作者は作品に対して全権の決定を行うという考えが前提となっている。しかし、制作者は物理的や政治経済的などの現実の諸条件の中で作品を制作している。したがって、作品に対して神のように君臨することはあり得ないはずである。(註 1)
この現実を直視するならば、理念化された創造者ではなく、現実の中の制作者像が見えてくる。こうした作者は、制作の前と後とで決定的な意味の変容を発生させるのでなければ、作品によって特別な能力を提示するのでもない。ただ、現実の中で起こる出来事を提示するだけである。
戸田裕介は1990年代の初頭から、スケールの大きな野外彫刻を制作してきた。それらはステンレスを石で押し潰したり、石を挟んで押し広げたりしたものである。構成的な性格が強く出される一方で、形態や表面に作者自らが手を加える比重は抑えられている。そのために、素材の物質性がストレートに出されたものとなっている。
こうした素材への関わり方は、「作者が全てを決定した作品」という枠組みで理解するのを困難にする。物質という、作者の外部にある要素を無視できないためである。戸田裕介の作品は、作者へ収斂していくという認識のされ方から逸脱しているのである。
《人間は神話を捨て去ることが出来るのか―Ⅱ》(2001年)は、7m近いステンレス・パイプを縦方向に三分割し、その内側に10トン弱の花崗岩を挟み込んだ作品である。金属は曲げる力に対して強い反発力をもち、一方で石は圧倒的な圧縮力を所有する。このため、押し広げられたステンレスの元に戻ろうとする力と圧縮に耐える花崗岩のソリッドな力が拮抗し、二つの力がせめぎ合う緊張感が発生する。
この構成では整合性を与えるのが目的とされていない。対立する力そのものが作品成立の第一要件として提示されている。二つの力が釣り合っているために表面化しないが、現状を打ち破ろうと潜在する力の危険性が内包されている。こうした緊張感を前景化するために、形態や表面などの作者の管轄に収まる要件は重要視されていないのである。
この力の存在は、制作方法に多くを負うことになる。制作過程ではこの力が全面的に発露されているからである。作者は手順として、最初にパイプの上部を鉄ワイヤーで縛ってから石の上方にセットする。次に、上から圧力を掛けてステンレスの間に石を押し込んでいくのである。
単純ともいえる工程ではあるが、スケールや重量を考慮すれば簡単なことではない。実際には、ステンレスの三箇所の隙間をジャッキで押し広げ、上から10トン以上の圧力を掛けて少しずつ押し込んでいく、厖大なエネルギーを要するものである。作品は、強大な力と抵抗感の中から立ち上がってくるのである。
作者は制作という作業を通して、身体感覚を超越する物質と対峙することになる。ここからは「素材を生かす」といった意識はもたらされない。作品の重量や石に掛かっている圧縮力は、手を使って素材に関わる意識とは遥かに乖離しているからである。
例えば、ステンレス・ステールは人工的な素材、石は自然的な素材と分類される。用途に適するように一次加工された素材は一度人間的なレベルに変換されており、扱いやすい存在となっている。このために、ステンレスは未加工の石とは異なった階層に属している。こうした物質を統制しようとするプロセスの有無が、素材の人工/自然を分節する。
しかし、《人間は神話を捨て去ることが出来るのか―Ⅱ》では、どちらの素材も巨大な重量と圧縮力/反発力を形成する要因である。人間の扱える範囲を超えるという同じ範疇に収まり、どちらも作者の人間性に親和することはない。戸田裕介の素材の関わり方からは、人間を尺度とする人工/自然の分節は無効化されることになる。
ステンレスと石は共に、作者にとって自我が十全に達せられることのない、他者として存在する。逆に、こうした素材の他者性に直面する目的から、戸田裕介はスケールの大きな野外彫刻を制作していると考えられる。スケールが大きくなることで素材の扱いは比例的に困難になる。その分だけ素材の他者性は直接的に露呈されるのだから。
作品の現れ方は素材の物質性に依存する。つまり、作品は作者の意識云々ではなく、物理的な条件などによってそうあるしかない姿を見せる。体感している現象の背後に、本質という意味によって体系化された世界は存在していないのだ。作品は理念によって規定されるものではなく、多方向に流れようとし、混沌へと繋がっていこうとする。
《人間は神話を捨て去ることが出来るのか―Ⅱ》における制作とは、無から有を生み出す創造ではない。素材の物質性を表面化させる方法を設定し実行し、他者としての素材と出合う場所に立つことである。制作は他者に直面するころで、制作前のイメージを裏切りながら進行していく。素材は作者自身の思い通りにならないものとして選ばれ、最後まで思い通りにならないままに置かれるのである。
この制作方法から生まれる作品では、厳密な意味での形態が作者の手を離れている。石とステンレスの関係からどのような形態が出現するかは、鉄ワイヤーの縛り具合や不整形な石のかたち、掛けられる圧力の強さや方向などに依存する。こうした複雑な要素が絡んだものを、事前から完全に予測することはできない。
加えて、力のせめぎ合いの中で作業は進行するためにリセットが効かない。制作過程においては、起こってしまった出来事は決定的となる。仮に、出現した形態が思い通りにならないとしても、その現実を受け入れるより他はない。時間の不可逆的な進行に直面することからも、やはり制作は理念の中に留まりはしない。
もちろん、手直しの効かない方法であることや、安全性に考慮が必要な作業であることから、方法は綿密に練り上げられている。事前に頭の中では構想から完成に至るプロセスは揺るぎなく明確化されている。このため、事前に思い描く作品像と現実に生じた作品との間には極端な差異は発生しない。しかし、この些細な差異が作者と作品とを決定的に分離する。それこそが理念化されることのない、現実に由来するからである。
この観点からすると、作者と見る者とは同じ場所に立っていることになる。作者ですら作品の姿は事後的にしか知ることができないのだから。(註 2) こうした立場から作品を生み出す姿勢は、制作=創造という固定観念を排除して、作品の意味そのものを問い直す場所から出てくるのである。それは、意味として読み尽くされる作品像を疑う場所に立つことに他ならない。
現実としてそうあるしかない姿として提示される作品。それは、意味によって構成された世界とは異なった文脈にある。戸田裕介の作品が、仮に暴力的に感じられるならば、単に巨大な物質の放つ力によるだけではなく、それが体系化された意味のシステムを停止させることよってである。
こうした作品が現前することで、創造者に統制された世界像は宙吊りにされる。ここから、見る者は意味として読み尽くされる世界像を疑う場所に導かれていく。
註 1)柄谷行人「建築の不純さ」『批評空間』website 2001年10月
http://www.criticalspace.org/
2)戸田裕介は作品を制作する理由を「何よりもまず自分が見たいから」と言ったことがある。この発言では作品コンセプトと実際の作品とが別物だと意識されている。