2002年4月10日発行のART&CRAFT FORUM 24号に掲載した記事を改めて下記します。
「はみ出た場所へ」 榛葉莟子
菜の花が満開と房総半島の南端に暮らす友の話を、黄色いお花畑の風景を頭に描きながら一足、いや二足三足早いあたたかさをうらやましく聞く。こちらは春近しの花は花でも雪の花が舞う。硝子窓の向こうに風花がひらひら舞っているのに気がつく。空は晴天である。八ヶ岳の雪を風がひゅっと吹きとばし里に送って来るおすそわけの雪というよりも、ひとひらひとひらのそれはしろい仮初の花びら。風花は一瞬の間に宙に消えては舞ってくる。はかない風花の舞う風景、明るい静けさと口の中で言う。
風が強い日家中の硝子窓はカタカタガタガタ合唱のような音が鳴り続く。隙間風は勝手気ままに部屋に浸入してくる。だからストーブにかじりつく。かじりついているから本を広げるかぼーっと火を見つめるしかない。たわいのない空想のかけらが浮かんでは消えていく。そのうちうとうと瞼が重くなる。ガサッという音にはっとする。眠ってしまった膝から落ちた本が所在なげに床に頁を広げている。本を拾い上げながらふと、硝子窓の鳴る音にまじって声のような妙な音に気がついて耳を向けた。キュキュともヒュヒュともシュシュとも‥‥呼びかけてくるような音、声。窓を開ける。もしも目の前の細い枝を広げたスグリの根もとにうずくまる小さきものを発見したとする。白く透きとおった布を重ねたようなものを身にまとっている。私は窓から外へ飛び出す。得体のしれないそれを懐に抱きしめ部屋に入り毛布でくるむ。冷えきっている。ミルクを温める。小さきものはミルクをコクコク飲む。頬に赤みが蘇る。白い薄布が赤みを帯びてくる。「ああ温かい、このあたたかさ」 小さきものが大人びた台詞を言って三角の白い顔をあげた。深く透きとおった明るい青い眼だ。どこかでこの眼と会った気がする。「いったいどこから来たの?」と聞く。「あっち」「あっちってどこ?」「あそこ」「あそこって?」「そこ」「そこってどこ?」「ここ」「ここ?」なぞなぞごっこで拉致があかない。と見れば眠っている。毛布を動かすとシュツとけむりのような白いものがたなびいてそれはすぐ見えなくなった。何だったのだろう得体の知れないあれは‥‥。だから窓を開けスグリの根もとを見る。あたりを見渡し妙な声の出所を耳は探ったけれど、ただぴゅうぴゅう吹く風に身を任せる木々がその身をくねらせ踊っているのが見えるばかりだ。数日後、あの行方知れずの妙な声を再び聞いた。夜のことだった。テレビを見ているとあの声が聞こえた。とても近い。玄関の戸を開ける。白いものがするり中に入ってきた。キュウとあまえる声で私を見た。兎みたいに長い耳の白い子猫。抱き上げる。生まれたばかりの羽毛の柔らかさ。透きとおった青い目。まさか私のもしもの中に来たのはこの子?まさかまさかと「ねえ、どこから来たの?」しつこく私は質問する。そのたびに白い子猫の三角の耳がぼーっと赤くなる。
はかないかけらばかりがひらひら浮かんでは消えてゆく冬の日々、けれども耳を澄ませば刻々とかすかな息吹は近づいてくる。そして在る日、枯野の端っこにイヌノフグリの青い蕾を発見。なぜかこの二十年来、私の春はこの小さな青い花をまず見つける事からはじまる。だから自分だけの儀式のようにしゃがんで青い花に挨拶する。ここは何となく好きな場所である。多分誰もが自分の好きな場所を一つ二つは密かに持っていると思う。私の好きなここは季節を問わずすがすがしさに満ちている。川に沿った森の連なりは、すすきの原っぱや田畑を縁取るようにカーブしながら細く続き、その向こう、遠くになだらかな線で描いたような三角の富士山がいる。どうということのない村の一遇、変形縦長の天然自然空間である。いつまでもそこにたたずんでいたい、いつまでもぶらぶら歩いていたい、そんな気にさせられる馴染みの場所、魅かれる空間。けれども四六時中そこに行くわけではない。何だか呼ばれたような気がしてと、後からそんな気がすることがよくある。混じり込んでいると、こことか、あそことか、どこということもないはみ出て行く感覚が染みてくる。どこか世界の果てにいるような‥‥。
犬がワンワン散歩の催促をしている。さあ、行こうと綱を手に走り出そうとした時だった。空からワン、ワンと犬の吠える声がした。犬が空を飛んでいる?ワン、ワン、ワン空から大きな吠える声が聞こえる。正体を知って驚いた。鳥だった。神社の杜に家族らしき鳥は来るが、カーカー、グゥェグゥェだ。犬の吠え声の鳥の声は初めて聞いた。庭で吠える我が家の犬の声、間合いがそっくりなのだ。空からワン、ワンと吠えるはみ出たあの鳥にもう一度会いたい。