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造形論のために『方法の理路・素材との運動③』橋本真之

2016-12-03 09:44:07 | 橋本真之
◆ 橋本真之『歩道』1971年 鉄 (第一回ときわ画廊個展出品作)

◆橋本真之「歩道」 1970年   鉄

◆橋本真之「坑道」  1970年   鉄

◆橋本真之「坑道」 1971年   鉄  
(第一回ときわ画廊個展出品作)


2001年10月1日発行のART&CRAFT FORUM 22号に掲載した記事を改めて下記します。

造形論のために 「方法の理路・素材との運動③」      橋本真之

 《芒洋の大地》
 友達からナップザックと時刻表を借り、歯ブラシと着替えをいくつか入れ、賞金で買い求めた国鉄の周遊券を、ポケットに捻じ込んで、北海道へ出かけた。関東では、すでに桜が散った後だったが、北に行く列車の車窓から見る景色は、季節を逆にまわしているようだった。桜吹雪のあとに満開の桜がやって来て、五分咲、三分咲の順でやって来た。海峡を渡った北海道の山間部には、まだ雪が残っていた。息切れする足取りでクマゲラの棲む木々の間を行くと、肉片を付けた黒い鳥の羽が雪の上に落ちていた。木々はどこまでも奥深く続いていて、私は夕暮れを恐れた。

 北海道の芒洋としてあてどもない空間を見ると、これまで自分の制作して来た作品空間の質は、ここでは耐え得まいと、痛切に自覚させられた。北海道の原野のような空間において、何を処所に私の密室における机上世界は成立することができるのか?というような、きわめて素朴な疑問にとらわれたのである。旅行に出かけて来る前に、私は鉄の「林檎」に鉄パイプを通すというような作品を作って来たのだったが、その事によって「林檎」の中心に外部の空気を貫通させようとしたのだった。私は造形上の空間意識について、質と量との問いを共に突き付けられた訳だ。そして北海道で出会った人々は、動揺した若い私に強く深い印象を与えたが、それは自らの生の浅さの発見に対する、裏返しの印象だったに違いない。私の動揺は根底的なものとして、私自身をおびやかした。

 友達に借りて来た大きな時刻表は、北海道だけ落丁だった。借りものの時刻表は、役立たずでも捨てる訳に行かなかった。その上、時計を忘れて来た私は、日に何本も来ないバスを、停留所を遠く離れることが出来ずに待たねばならなかった。時計を持たないことによって、常に時間を気にしていなければならぬのは皮肉だった。けれども、そのことが安易に出かけた私の安全を保証していたのに違いなかった。海岸町で、漁師風の男達数人が現われて、彼等もバスを待っていたが、いずれの男も無口で威風堂々として、常に水平線のあたりを見ているような姿に圧倒された。私の苛々とバスを待つ姿勢を無言で正される思いだった。

 東京から旅行に来ていた若い夫婦は、時計を持たずに待ち時間を尋ねる私に、東京では考えられないほど、ひどく親切だった。夜になると長距離列車に乗り込んで、翌朝までの宿としていた私の旅行を面白がって、別れ際に弁当をふたつも持たせるのだった。鉄路の音に寝つかれないまま、朝方駅舎を出て町をうろついたが、歩き疲れて、丘の上の草原で午後のひとときを眠った。私は行き先のあてなどなくて、行きあたりばったりに北海道中を巡っていた。摩周湖は霧で見ることが出来なかったが、エメラルドグリーンの湖水の屈斜路湖を呆然と見た。バスで美幌峠というところを通った。その時、白の上下を着た今年30歳になるという、前歯の一本欠けたヤクザ風の男が話しかけて来て、電車に乗りつぐまでの待ち時間を、食堂やら喫茶店やらを連れまわして、私に話をし続けた。見るからに危険な風体に警戒しながらも、待っていた列車を一本乗り過ごしてしまうほど、彼の話にひきずられた。冬中、雪の国有林に入って親方と二人で内緒で木を切り出していたのだが、山を降りて来たばかりなのだという。「だから今、金はいくらでもある‥‥」と悠々としていた。「君の仕事も正当性のない仕事だ‥‥」男はそう語って、欠けた前歯の間に煙草をはさんで煙を吐き出した。確かに、こんなあてどもない空間では、私の造る林檎は何の力も持ち得ない。彼の言う「正当性」とは造形の問題などでは毫もなかったのだが、私の生をささえる社会との問題であるよりも、私自身の生の根拠を問うところとなれば、それは私にとって造形の問題でないはずはなかった。造形的に解決がつかずには、何の解決にもならぬという私の意志は、あまりに硬直していたと言うべきか?

 春浅い北海道を西に東に北に南に、日に日に動き回って風景を見続けている内に、広大な空間の起伏に立つ木柵や電柱の列が、わずかに人間の作意による空間への仕掛けとして見えて来た。それは社会であり、法律であり、政治であったはずだが、私にとって、ついに造形上の問題であることをやめなかった。おそらく、これが私をささえる根本的な資質なのである。

 北海道中を行ったり来たりした後で、日本海側の小さな島、天売島に渡った。一日に数回だけ出航する、小さな漁船のような連絡船に乗り、波にもまれて焼尻島、天売島と行くのである。私は船酔いしなかったが、それでも足下をふらつかせて島に上がると、島の南端の断崖に天然記念物のオロロン鳥や海猫が無数に巣をつくっていて、そこには私の密室以上に、絶滅しかねない安定を欠いた生が繰りひろげられていた。断崖の上で、私は海を覗き込みながら、強い風にあおられて草の根を握りしめていた。天売島は二時間も歩くと島を一周することができ、行く道が一眺に見渡せるほど小さな島だった。日暮れてユースホステルに帰ると、その年私が初めての客だったらしくて、近所の少年がめずらしそうに私を見に来た。その中学を出たばかりの漁師の少年は東京の話を聞きたがった。乏しい経験きりない私の話にすら、少年は耳を傾けた。私が様々な北海道の人々に動揺させられたのと同様に、その少年もまた、私に動かされたのだろうか?そこに昨日までの私が居た。私にはそのように思えて得心した。

 周遊券の期限が切れる半月がぎりぎり近付いて、帰路についたが、青森県の弘前で途中下車した。話に聞いていた弘前の林檎園を見たかったのである。午後遅くユースホステルに着き、荷物を置いて早速でかけた。林檎の木をめざして、無闇矢鱈歩いて行ったが、林檎園はいたるところにあって、夕暮時の湿度を含んだ空気の中で、白い花がかすかに薄紅色をおびて花ざかりだった。林檎の花の下を歩き続けていると、小高い丘が現われて「林檎公園」とあった。公園には全くひと気がなかった。丘に登ると、暗い雲の下で、あたり一面の林檎の木に、満開の花々が煙ったように咲き渡っているのだった。遠くにたき火の煙が立ち登っていて、若い農婦が一人で一日の仕事の後始末をしていた。ひときわ目立つ山が青く見えていて、それは岩木山だったに違いない。

 北海道の芒洋とした風景を見続けて来た後で、この林檎の木が植えられた見渡す限りの風景は私を圧倒した。しかも、人々はこれらひと花ひと花を育てて、すさまじいばかりの量の果実を収穫するのかと思うと、私を浮き立つような清々しい思いにするのだった。私はどれほどそこに居て見続けたのだろうか?湿度は雨滴を結んで降り始めた。私は夕闇の中の帰路を急いだ。

 翌日の我が家に向かっている列車の中で、我が町を、さぞかし狭苦しく感じるに違いないと思うと憂鬱だった。見慣れた車窓の風景が私を出迎えて、駅舎を出ると、奇妙なことに、我が町は何と広々としていることだろうと驚いた。狭苦しいはずの通りを歩いていても、奇妙に広々とした空間が見えるのだ。私は北海道をうろつき回っている内に、かの漁師達の視線を獲得していて、道の再奥の地平線のあたりに、まっすぐに目を向けて、看板やらショーウィンドのコセコセした物達は無論のこと、家々の壁を越えて見はるかすような遠い視線を持っていた。

 数日もすると、日常の生活に応対している内に、私の姿勢はもとのもくあみに見失われてしまったが、この視線は時として兀然とよみがえって、今でも広大な空間を見る姿勢を獲得することができる。

 北海道旅行から帰って来てからの「林檎・馬糞・乳房」の展開として、正方形の台上の四隅に四つのつぶれた林檎を溶接してあった。不満でしばらく放置したままだったが、四つに熔断して、地面に直接一列に配置することにした。私の物を見る時の空間量が、以前とはまるで変わっていた。北海道で見た棒杭や電柱に習ったというべきだろうか?しかし、その四つの林檎の間隔が問題だった。私は様々な場所に持ち出して、四つの林檎の、空間の質との対応関係を探った。私が歩く時、移動する軸足の接地位置に配置することが、最終的な位置決定となった。縞鋼板のすべり止め模様を生かして使うということは、表側からは直接金槌で叩くことは出来ないので、裏側から突き出すかたちで火作りしなければならないのである。「火作り」とは、鉄を赤熱した状態で叩いて形作ることを言う。

 一方『林檎の肖像』の展開として、つまり等価の構造の展開として、二個の林檎を同時に作り始めた。二個の林檎を同量の鉄板で作るのだが、私自身の集中力の変化、肉体的な疲労、制作手順による感覚変化の微妙な差が形態上の変化を引き起こすのである。その差異を感じ取れる二個の林檎の間の最大距離を求めた。これも又、台座を放棄する方向を取ったのである。北海道の空間のもつ芒洋としたものに向けられていたのではあったが、私にとって、これはまだ二個の林檎の間に放物線を描くような空間の問題であった。当初、二個の林檎にはドリルで貫通した穴があけられた。小さな穴が双方に空くことで、一対の関係は明瞭になったが、形態は強度を失なうように見えた。そして二作目には、一対の林檎のそれぞれに、断面が正方形の管を通して熔接した。これは強度は失わないけれども、あまりに工作的で作為的な形態が、当時の私には気にいらなかった。三作目は形態上の穴を捨て、単に二個の林檎を六歩の距離の地面に置くというものになり、林檎そのものが空間における二個の閉じられた穴となるようなあり方である。もうひと押しできないものかと、四作目もまた、そのような形で作り替えて、『坑道』と題した。いずれにしても、これは芒洋とした空間にいくどもトンネルを掘るような仕事だったのである。このふたつの作品の方位を得た時、私は初めて強い発表欲にかられた。

 さて、読者はこの婁々とした展開に僻易としているのではなかろうか?実のところ筆者ですら僻易としている。今さら若い時代の展開をたどったところで何の益があるのかと、内心苦しい。初めて公的な発表をする大学院生が、試行錯誤の末に、万全の準備をしていたのだ。けれども、私としても、当時を振り返って、認めてやりたい唯一の橋本真之の特異点は、全く孤立した場処から自ら問題を立て、問い続ける力だっただろうと思える。その事実をおいて、あえて自らの造形史を語り続ける意味はあるまい。私の個展は黙殺だった。あたりまえのことである。時代と全く逆を向いて歩き始めた、しかも苛立ちを隠そうともしない若者の仕事に、誰が関心を持つものか。しかも手持ちの古々しい技術。個展会場で「鍛金」と聞いて話の通じる人間は誰も居なかった。「打ち出し」と「鍛造」という言葉で話を通じさせるより仕方がなかつたのである。興味を持って見ていたと思える来場者も、私の話に工芸の臭いをかぎつけると、プイと帰ってしまった。

 私は作品から台座を捨て、床に直接置いて展示することで、広い空間に対して作品空間を開いたつもりだった。一週間、個展会場で北海道の空間を思い出しながら作品を見ていると、台を捨てたところで、結局のところ画廊空間という特殊な枠の中の構成に過ぎないと自覚した。仮に野外空間であったとしても、これでは視界の範囲を枠にして構成することになるのに違いないと思えた。かの広大な視線の前では、空間の凝縮と膨満の中心点を見い出すことが必要なのだ。私はそのように考えた。(つづく)