◆村井進吾《SOLID 2000-4》1020×255×255㎜/黒御影石/2000年/撮影:山本糾
2002年1月20日発行のART&CRAFT FORUM 23号に掲載した記事を改めて下記します。
『手法』について/村井進吾《SOLID》 藤井 匡
〈素材〉という言葉には注意が必要である。素材を単なるメッセージの乗り物として見るなら問題はない。しかし、制作において手が介在するとき、事前には存在しなかったメッセージを制作過程そのものが産出する場合がある。そうした作品について考えるならば、素材を単体として考えるのではなく、素材と制作者とを手が結びつける場所について考えなければならない。
村井進吾は発表を始めた1980年代初頭から、素材としてほとんど石だけを扱ってきた。そして、同時に「なぜ石を扱うのか?」という質問への回答を回避してきた。それは作品が生まれる場所を制作主体に引き寄せて語ることを回避してきたのだと、僕は考えている。作者は、出現した作品が主体の志向の外側にあることを知っているのである。
石を使用する背後には、かつての多摩美術大学・中井延也教室(石彫)の在籍や石彫家の共同によるアトリエKUUの結成といった個人史的な出来事が見えるだけに留まる。実際に作者自身も彫刻を始めた経緯について、画家になるつもりだったが、大学進学の際に彫刻科に入学してしまったから――と発言(註 1)している程度である。ここには、素材に関して自由な主体による選択といった意識は見えてこない。
素材の石とは現実の中で出合ったものであり、他者(註 2)という自己の願望が投影されないもの、思い通りにならないものなのである。制作とは制作者の主体性に収斂するのではなく、この他者との交通として認識される。そして、素材との交通を可能にするのは他者に対する――他者に直面した自己に対する、と言い換えられるだろう――誠実さによってとなる。
村井進吾《SOLID》は1996年から開始された、二つの石によって構成される作品群である。一方の石の内部を直線と平面がつくる幾何学的な形状に切り抜き、他方にその部分と同型・同質量に加工した石を差し込んで、直方体に戻す(限りなく近いものにする)作品である。例えば、《SOLID 96-3》は下側の石の上面を四角錐型に切り取り、上側から四角錐が突き出した石を組み合わせる。また、《SOLID 2000-4》は下側の石の上部の周囲を切り取って凸型にしてから、切り取られた部分に該当する石を上方から嵌め込んでいる。
二つの石は、一つの石塊をカッターで切って外してから、もう一度嵌め込んだものではない。この手続きであれば、切断と復元が可能な形状であってもカッターの厚み分の石が失われてしまう。接合面にわずかな隙間も認めないならば、別々の石からミリ単位の精度をもった部品がつくりだされなければならない。作者が作品寸法をミリ単位で表記するのは、そうした態度を反映していると思われる。石同士をぴったり噛み合わせる行為は、そうした緻密な作業を通して想像的には完璧に達成される。
しかしながら、現実には、その完璧さは単なる想像に過ぎないものとなる。どんなに精度を上げていっても接合箇所には必ず誤差が生じ、純粋な直方体には還元されない。仮に、同一寸法・同一形で同一箇所に切り目を入れた石があるとして、それとの比較を考えれば、このわずかな差異が視覚にとって決定的なものだと分かるだろう。《SOLID》は事前に引かれる図面をほんの少しだけ外れることによって成立するのである。こうした性質は行為の中から得られるものであり、意図されて得られるものではない。
また、《SOLID》以降の作品では――安全面が重視される屋外展示のものを除いて(註 3)――エッジの面取り(角の切り落とし)が行われていない。《SOLID》のような作品で面取りを行えば、表面上の接合線は視覚的に滑らかに連続し、平坦な一枚板として認められることになり易い。それは反面、ごまかしを発生させ易く、行為を曖昧にしてしまう。
しかし、そのことが石を組み合わせる作業をより困難にしてしまう。石のエッジは脆く、欠けやすい。自重がその部分にかかることで簡単に弾け飛んでしまう。したがって、石同士は隙間が認められないと同時に接触も認められない。面取りを行わないという、ある意味では些細なことが、石が重く・扱いにくく・意のままにならない存在であることを顕在化することになる。
こうして考えると、不注意であれば単なる直方体に見える石が、極めて困難な道程から出現していることが分かる。勿論、表面上の視覚効果だけを求めるのであれば、費やされる努力は不毛でしかないだろう。その中で敢えてこうした『手法』、限りなく不可能の近い方法を採るのは、自己の存在と対位させるに値う石の存在を認めるからと思える。
直方体への復元作業とは理念的なものではなく、現実の場でにおいて徹底して行われている。厳密に考えるならば、本来がイデアルな抽象物である幾何学が現実として達成されることはあり得ない。その上でなお、不可能なものに限りなく漸近していく、この徹底した態度こそが《SOLID》に彫刻としての特異性をもたらすことになる。
石を組み合わせる作業は思考上のパズルという十全に到達され得るゲームではなく、他者である石との関係を所有するための形式なのである。他者との邂逅は貫徹が困難な形式を原理的に貫くゆえに生じ、形式に対する妥協が一切排除された場所だけで獲得される。そうした原理的な場所でのみ自分を理解し、他者を理解する必要に迫られるのだから。能う限り作品の精度が求められるのは、通常の意味での作品の完成度のためではなく、極限の地点でのみ見えてくる自己と他者との関係を求めているからである。
だが、こうした関係は、見る者がこの原理的な場所に立つことによってしか見えてこない。展示された作品が抱えている、制作過程での作者と素材との交通は、両者の関係が見渡せる地点から望遠するようにして発見できるものではない。目前にある作品を凝視すること、他者である作品と交通することによってのみ見出される。実際、村井進吾は素材の選択と同様、自身の制作について語ることは極端に少ない。ここでは、見る者が自身に内面化できない他者としての作品と交通することが要求されるのである。
《SOLID》の微細な凹凸をもった表面の質感は――研磨された石の表面が見る者の視線を反射するのと異なり――視線を内部へ進入させようと誘う。しかしながら、石という物質を透視するのは不可能であり、そのために視線は宙吊りにされて表面へ留まることになる。したがって、表面上の接合線が強度をもって知覚され、不可視である石そのものの存在(在り様)を喚起することになる。
作者は《SOLID》シリーズでは全て、二つの石が全ての接触面で密着する構造をもっており、内部に隙間はつくられていないと言う。しかし、既に存在しまっているものを事後的に見る者は、石の在り様とは決定的に隔離されている。ここでは「見る=理解する(see)」の等式が保証されないままに作品と繋がることしかできないのである。
この飛躍した繋がりを獲得するためには、作者の石に対するのと同等の誠実さが作品に対して必要とされるはずである。勿論、村井進吾は決して見る者を裏切ることはないのだが、それでも見る行為が石の在り様を完全には把握できない以上は確約はない。作品はいつまで見続けても見る者が自己と同一化することの能わない他者に留まる。
そうした作品の他者性とは、石の在り様を見ることができる場合であっても、依然として残るものである。《半分の水》では直方体の石の上面の半分が四角錐(《半分の水2》では三角錐)に切り込まれ、その部分には水が湛えられる。石が嵌められる《SOLID》とは違い、ここでは透明な水を通して石の構造を確認できる。しかし、光量差によって水面は鏡のように外界(見る者が所属している場所)を写し出しており、水の内側は写し出された外界の外側として感じられる。見えているとはいえ、石の在り様はやはり見る者とは決定的に隔離されている。
このため、水面を通して石の在り様を見ることは、見る者が帰属する場所が相対的であることへの懐疑に導いていく。ここでは「世界はこのようにある(あるべきである)」という物語から切り離された、自己に内面化されない他者を作品に見出すことになる。作品の表面は自己と同一視される共同体の境界であり、石の在り様はその外側にある。
自我が十全に達せられる共同体を出て、外側の世界と交通すること――それが、石に対峙する村井進吾の立っている場所であり、同時に作品に対峙する者が導かれていく場所である。
註 1)講演会(鼎談)「現代彫刻の展開と課題」大分市美術館 2001年4月29日(『村井進吾―思考する石―』展 関連行事)
2)柄谷行人「交通空間についてのノート」『ヒューモアとしての唯物論』筑摩書房 1993年(初出“Notes on Communicative Space”,Anywhere,New York,1992.)
3)《SOLID》シリーズは鑑賞者の安全が展示の条件として保証されている美術館・画廊でのみ発表されている。
2002年1月20日発行のART&CRAFT FORUM 23号に掲載した記事を改めて下記します。
『手法』について/村井進吾《SOLID》 藤井 匡
〈素材〉という言葉には注意が必要である。素材を単なるメッセージの乗り物として見るなら問題はない。しかし、制作において手が介在するとき、事前には存在しなかったメッセージを制作過程そのものが産出する場合がある。そうした作品について考えるならば、素材を単体として考えるのではなく、素材と制作者とを手が結びつける場所について考えなければならない。
村井進吾は発表を始めた1980年代初頭から、素材としてほとんど石だけを扱ってきた。そして、同時に「なぜ石を扱うのか?」という質問への回答を回避してきた。それは作品が生まれる場所を制作主体に引き寄せて語ることを回避してきたのだと、僕は考えている。作者は、出現した作品が主体の志向の外側にあることを知っているのである。
石を使用する背後には、かつての多摩美術大学・中井延也教室(石彫)の在籍や石彫家の共同によるアトリエKUUの結成といった個人史的な出来事が見えるだけに留まる。実際に作者自身も彫刻を始めた経緯について、画家になるつもりだったが、大学進学の際に彫刻科に入学してしまったから――と発言(註 1)している程度である。ここには、素材に関して自由な主体による選択といった意識は見えてこない。
素材の石とは現実の中で出合ったものであり、他者(註 2)という自己の願望が投影されないもの、思い通りにならないものなのである。制作とは制作者の主体性に収斂するのではなく、この他者との交通として認識される。そして、素材との交通を可能にするのは他者に対する――他者に直面した自己に対する、と言い換えられるだろう――誠実さによってとなる。
村井進吾《SOLID》は1996年から開始された、二つの石によって構成される作品群である。一方の石の内部を直線と平面がつくる幾何学的な形状に切り抜き、他方にその部分と同型・同質量に加工した石を差し込んで、直方体に戻す(限りなく近いものにする)作品である。例えば、《SOLID 96-3》は下側の石の上面を四角錐型に切り取り、上側から四角錐が突き出した石を組み合わせる。また、《SOLID 2000-4》は下側の石の上部の周囲を切り取って凸型にしてから、切り取られた部分に該当する石を上方から嵌め込んでいる。
二つの石は、一つの石塊をカッターで切って外してから、もう一度嵌め込んだものではない。この手続きであれば、切断と復元が可能な形状であってもカッターの厚み分の石が失われてしまう。接合面にわずかな隙間も認めないならば、別々の石からミリ単位の精度をもった部品がつくりだされなければならない。作者が作品寸法をミリ単位で表記するのは、そうした態度を反映していると思われる。石同士をぴったり噛み合わせる行為は、そうした緻密な作業を通して想像的には完璧に達成される。
しかしながら、現実には、その完璧さは単なる想像に過ぎないものとなる。どんなに精度を上げていっても接合箇所には必ず誤差が生じ、純粋な直方体には還元されない。仮に、同一寸法・同一形で同一箇所に切り目を入れた石があるとして、それとの比較を考えれば、このわずかな差異が視覚にとって決定的なものだと分かるだろう。《SOLID》は事前に引かれる図面をほんの少しだけ外れることによって成立するのである。こうした性質は行為の中から得られるものであり、意図されて得られるものではない。
また、《SOLID》以降の作品では――安全面が重視される屋外展示のものを除いて(註 3)――エッジの面取り(角の切り落とし)が行われていない。《SOLID》のような作品で面取りを行えば、表面上の接合線は視覚的に滑らかに連続し、平坦な一枚板として認められることになり易い。それは反面、ごまかしを発生させ易く、行為を曖昧にしてしまう。
しかし、そのことが石を組み合わせる作業をより困難にしてしまう。石のエッジは脆く、欠けやすい。自重がその部分にかかることで簡単に弾け飛んでしまう。したがって、石同士は隙間が認められないと同時に接触も認められない。面取りを行わないという、ある意味では些細なことが、石が重く・扱いにくく・意のままにならない存在であることを顕在化することになる。
こうして考えると、不注意であれば単なる直方体に見える石が、極めて困難な道程から出現していることが分かる。勿論、表面上の視覚効果だけを求めるのであれば、費やされる努力は不毛でしかないだろう。その中で敢えてこうした『手法』、限りなく不可能の近い方法を採るのは、自己の存在と対位させるに値う石の存在を認めるからと思える。
直方体への復元作業とは理念的なものではなく、現実の場でにおいて徹底して行われている。厳密に考えるならば、本来がイデアルな抽象物である幾何学が現実として達成されることはあり得ない。その上でなお、不可能なものに限りなく漸近していく、この徹底した態度こそが《SOLID》に彫刻としての特異性をもたらすことになる。
石を組み合わせる作業は思考上のパズルという十全に到達され得るゲームではなく、他者である石との関係を所有するための形式なのである。他者との邂逅は貫徹が困難な形式を原理的に貫くゆえに生じ、形式に対する妥協が一切排除された場所だけで獲得される。そうした原理的な場所でのみ自分を理解し、他者を理解する必要に迫られるのだから。能う限り作品の精度が求められるのは、通常の意味での作品の完成度のためではなく、極限の地点でのみ見えてくる自己と他者との関係を求めているからである。
だが、こうした関係は、見る者がこの原理的な場所に立つことによってしか見えてこない。展示された作品が抱えている、制作過程での作者と素材との交通は、両者の関係が見渡せる地点から望遠するようにして発見できるものではない。目前にある作品を凝視すること、他者である作品と交通することによってのみ見出される。実際、村井進吾は素材の選択と同様、自身の制作について語ることは極端に少ない。ここでは、見る者が自身に内面化できない他者としての作品と交通することが要求されるのである。
《SOLID》の微細な凹凸をもった表面の質感は――研磨された石の表面が見る者の視線を反射するのと異なり――視線を内部へ進入させようと誘う。しかしながら、石という物質を透視するのは不可能であり、そのために視線は宙吊りにされて表面へ留まることになる。したがって、表面上の接合線が強度をもって知覚され、不可視である石そのものの存在(在り様)を喚起することになる。
作者は《SOLID》シリーズでは全て、二つの石が全ての接触面で密着する構造をもっており、内部に隙間はつくられていないと言う。しかし、既に存在しまっているものを事後的に見る者は、石の在り様とは決定的に隔離されている。ここでは「見る=理解する(see)」の等式が保証されないままに作品と繋がることしかできないのである。
この飛躍した繋がりを獲得するためには、作者の石に対するのと同等の誠実さが作品に対して必要とされるはずである。勿論、村井進吾は決して見る者を裏切ることはないのだが、それでも見る行為が石の在り様を完全には把握できない以上は確約はない。作品はいつまで見続けても見る者が自己と同一化することの能わない他者に留まる。
そうした作品の他者性とは、石の在り様を見ることができる場合であっても、依然として残るものである。《半分の水》では直方体の石の上面の半分が四角錐(《半分の水2》では三角錐)に切り込まれ、その部分には水が湛えられる。石が嵌められる《SOLID》とは違い、ここでは透明な水を通して石の構造を確認できる。しかし、光量差によって水面は鏡のように外界(見る者が所属している場所)を写し出しており、水の内側は写し出された外界の外側として感じられる。見えているとはいえ、石の在り様はやはり見る者とは決定的に隔離されている。
このため、水面を通して石の在り様を見ることは、見る者が帰属する場所が相対的であることへの懐疑に導いていく。ここでは「世界はこのようにある(あるべきである)」という物語から切り離された、自己に内面化されない他者を作品に見出すことになる。作品の表面は自己と同一視される共同体の境界であり、石の在り様はその外側にある。
自我が十全に達せられる共同体を出て、外側の世界と交通すること――それが、石に対峙する村井進吾の立っている場所であり、同時に作品に対峙する者が導かれていく場所である。
註 1)講演会(鼎談)「現代彫刻の展開と課題」大分市美術館 2001年4月29日(『村井進吾―思考する石―』展 関連行事)
2)柄谷行人「交通空間についてのノート」『ヒューモアとしての唯物論』筑摩書房 1993年(初出“Notes on Communicative Space”,Anywhere,New York,1992.)
3)《SOLID》シリーズは鑑賞者の安全が展示の条件として保証されている美術館・画廊でのみ発表されている。