この間 少しずつ読んでいた「ブッダとそのダンマ」
ダンマとは仏教の本質の意味で人と人との間の正しい関係の確立であり、慈悲の心を基礎とする道徳の確立でもあるとアンベートガルはいう。
ブッダが伝えたかったことをアンベードガルが徹底的に研究し、不可触民解放のためのバイブルであり手引書として書かれた本で、これまで読んできたブッダに関するものとまた違った角度からも読むことができた。わかりやすく常に傍に置いておきたい本となりそうです。
ブッダが修正したもの
* 妥当性のある因果の大法則を彼は容認した。
* 神が人間や世界に何が起るか予め定めたという宿命論やそれに似た馬鹿げた考えを否定した。
* 前世に犯した一切の行いは苦しみを生み現在の努力を無意味化する力を有しているという説を否定した。
彼はカルマの宿命論を否定し、もっと科学的カルマ理論に置き代えた。
* 輪廻は再生論に置き代えた。
* 霊魂の解脱論をね涅槃論に置き代えた。
ブッダが認めたもの
ブッダの教えで最初の際立った特色は、あらゆるものの中心に‘心‘をおいたことである。”心”は物事に先んじ、支配し造り出す。もし”心”を完全に把握すればすべての事も把握できる。
”心”は総ての働きを導くものであり、主人であり、”心”そのものがその働きでできている。先ず専心すべきことは心の修練である。
第二の特色は、我々の内外に起こる総ての善悪は心が生みだす。悪や悪に関連し悪に属する一切の事柄は心から生じる。善についても同様である。閉ざされた心で語り、行為すれば、牛に曳かれる牛車の車輪のように苦しみがついて回る。それ故心が澄み切っていることが宗教の核心でなくてはならない。
第三の特色は一切の罪深い行為を避けよ。第四に新の宗教は宗教書の中ではなくその教えの実践にあるとした点である。 (B・Rアンベードガル 山際基男 訳 「ブッダとそのダンマより」)
毎日が瞬く間に過ぎていく。会議や何かで出かけると半日が過ぎ、帰ってからも何かしら落ち着かない。
ゆっくりと家で自分のしたいことを自分のペースでやれることが何より心落ち着く。しかし世間に対してほんの少しでも役に立たなければ自分が生かされてある意味がないとも思う。
毎日の日暮らしの中でこのままでいいのだろうかという思いがふとよぎる。
世間一般の喜びや遊びの中でそのあとの虚しさがいつもよぎる。一体私はどうしたいのか?
大手術の後は唯、唯 生かされてあることの喜びと感謝で一杯だったのに。
大震災にあわれた方たちは毎日をどのような思いで過ごされているだろうか 特に年をとられた方たちは希望をもって立ち向かうことなどしんどいことだろうと思う。
震災の事を思うと自分独りよがりの事は思えないし、何とか自分なりに動かねばと思うのだが・・・ そうやね いつもいつも人間元気な気分でいられるわけじゃありませんよね。
3日程前、高校の同級生に電話した。長い間ご無沙汰だったのもあるし声も聞きたかったからだが。生憎 留守でかからなかったが翌日かかってきた。元気にしてるか?に始まりやはり年には勝てない、週のうち何日かは病院通いだと言っておられた。
私も大腸がんの手術をして大変だったと話した。同級生の近況など話していて、どうも精神的にしんどい状況を抱えておられるように感じた。いつ頃からだろうか? どうりで以前のような勢いが電話の声から伝わってこないように思えた。
積極的に人に会ったりするのが億劫だと言われ「鬱か?」と聞くと「まあ、そうや」という答えが返ってきた。
それで長年の疑問が解けたような気がした。
いつも為になる本を届けてくださる知人のMさん。昨日も私が運動を兼ねて西武に行っている間にポストに入れておいてくださった。
「変容する西陣の暮らしと町」という本だった。私が生まれ、育った西陣の事が書かれている。Mさんもある時期西陣に居住されたことがあり、興味があって求められたらしい。(10年ほど前の本だが現在はもっと変わっているだろう)
京都に行くたびに(病後 最近はなかなか行けなくなったが)ビルが立ち並び昔の面影が無くなっていく風情にがっかりしていたが、どのように変わっていったのか西陣をとおして読んでいきたい。
小さかった頃笹屋町通りに糸で作った人形展があったがそんなことを覚えている人ももう少なくなってきているかもしれないなあ・・・と思いつつ。
西武でウィンドーショッピングをしながら1時間40分位歩いたが、夜に足の痛みもなかった。だいぶ元に戻ってきたかなと思った。
家の家具の移動をした。私は昔から家具の移動が好きで、小さい部屋をどうしたら大きく見えるようにするかとか、便利に動けるにはなどと考えるのが嬉しい性質らしい。
台所のテーブルに最近パソコンが置きっぱなしになって気になっていたのでいろいろ考えてディスクトップのパソコンをパソコンラックに置きかえて(上の娘のリサイクルショップより調達)、プリンターも上に乗せるとパソコンで使っていた机のスペースが広くなった。
そこへ娘のパソコンを置き、仕事をしてもらうようにした。
8段あった小引き出しの棚二つに入っていた書類や、薬、文房具、手紙類をしまう箱を押し入れからごそごそ探しだし、机の下に入れた。(足らない分はこれもリサイクル店で)
奥の部屋は物置同様で、これも気になっていたのでついでに片づけよーと思い立ち、大きな整理タンスの引き出しを抜いてから移動し本箱の所に置く。元の本箱は本の整理をしながら窓側に移動。
長年大事に残していたジェーンエアーの単行本も思い切って処分し高かった福音館の児童書も処分することにした。ゆっくりできるようになったら読もうと思っていたのだが、細かい字も読みづらくなってしまったし、孫たちも読まないという。
パソコンの奥の凄いほこりも、タンスや本箱の後ろも、中に入っていたものの整理もできてすっきり。すっきり。
よー動かしたなあ・・・・とびっくりして言う娘に、元気に動けることのありがたさはわかるだろうかなあ・・・。
昨日は小出裕章教授の講演を聞きに行ってきた。テレビで原子炉内部の説明を保安院の人が説明されていてももう一つわからなかったのが、先生のわかりやすい説明でぐんとわかった。たとえ話を入れながらなので理解できやすかった。
それに皆が原子力推進に傾く中ひとり反対を貫いてこられたとは思えないほどのやさしい人柄がにじみ出ているように感じられた。
東電や、国が最大の罪を背負い償うべきだ。しかし原子力に携わってきた自分も国民に危険なことをもっともっと広めていく力が弱かったことで責任を感じる。又、騙されたとはいえ大人も責任の一部はあるだろう。しかし子供には何の責任もないのに放射能の被害を受けねばならない。このことを思う時何としても子供達を守っていかねばならないと思うと切々と訴えられた姿に感動した。
じかに先生の話を聞いて、なぜか原子力に対してホッとしたという感じをもった。これは安全だからという意味ではなく今までわからないまま不安で過ごしてきた気持ちがでんと落ち着けたというところかもしれない。
千葉の中村さんからハガキが届いた。今年は梨が送れません。放射能汚染が松戸にも広がっています。本当に残念です。という内容だった。この季節になると十年以上前からずっと送ってきてくださった大きくて甘い梨。近所におすそ分けして回り、皆に喜ばれていた。
早速電話でお礼を言い、今度はこちらから何か送るわねと言ったが、「いいんよ。そんなこと考えなくても」と言われた。大変な状況になってきているなあ・・・といろいろ話たが・・・。
今日は 朝チャン風邪で学校を休んだ。めったに休むと言わないのに余程しんどかったのか、よく眠っていた。運動会前後寒かったりで、体調を崩したのかもしれない。
月曜 約束していた京都の友人佐野さんと青木さんが信楽の帰りに来られ、久し振りにいろいろ話した。
4日火曜日も食欲はあまりなく又、お腹か胃の具合が悪くなったのかと心配したが、それでも午前中は中井さんと整骨院に行き、フォレオで軽くサンドイッチを食べたが大丈夫だった。
今日5日は検診の日で胃のピロリ菌検査と腫瘍マーカーの検査をした。心配していたがどちらも検出されず、胃の方はもう1年に一回の胃カメラだけでよいと言われた。
大腸は3カ月に1回の血液検査、CT、大腸透視検査などが年明けに待っているがまあ、やれやれというところだ。
引き続き食事に気をつけ、運動も忘れづにというところ。来月は末梢血管の血流検査を受けることにした。
昨日は新婦人しが全班交流会があった。Ⅰ部のサクソフォンコンサートがお目当てで近くの方二人を乗せて出かけた。サクソフォンの音色は力強くクラリネットとは又違った感じの演奏になるなあと思った。中川美保さんは被災地にボランティアに行かれ被災された方々を音楽で励ましてこられたようだ。
会の途中からお腹が痛くなりⅡ部の途中で退席した。帰ってから横になっていたがとうとう夜、嘔吐しだした。病院に行こうかと娘が心配したが、様子を見る。2回目の時は大量に出て、少し血が混じっているようにも見えたが、昼に作って飲んだジュースの人参かもしれないと思った。
沢山のジュースを昼一気に飲んだせいかもしれないなどと思いながら、少し不安がよぎったが不安はダメ良いように考えましょうと心で思いながら横になっていた。3回目で全部出たのかだいぶすっきりして眠りに着いた。
2011-10-01 | 写真
今日は孫たちの運動会の日だった。昨日の雨もあがり昼からは良い天気になってほっとした。高学年になり写真を写すことも、話しかけられるのもちょっといや~という感じになってきたあーちゃん。小さいころの可愛かったあーちゃんはどこに行ったのかと思うくらいの成長ぶりだ。Rちゃんも大きくなって本当にきが良くつくお姉さん。それでも甘えん坊でちゃーちゃんにくっついたり、偉そうに言って怒られたり。二人を車に乗せて保育園の送迎していたころが懐かしく思いだされる。
がんばって!!
6年生と合同の新ソーラン節の始まり