・・・・・・あわぞうの覗き穴・・・・・・

気が向いたときに、覗いてご覧ください。
何が見えるかは、覗く方々のお眼め次第です。

朝日

2011年01月16日 | なんだいまあ(何だこりゃが念仏になった)

朝の空気の気持ちが良いのは、冷たいからか、汚れてないからか。

 

「朝日のごとくさわやかに」(Softly as in a Morning Sunrise) という曲がある。
1週間分の7演奏をお届けしよう。

Sonny Rollins
http://www.youtube.com/v/J14E-XcleEs?fs=1&

Sonny Clark
http://www.youtube.com/v/bTqjajFgsYQ?fs=1&

John Coltrane
http://www.youtube.com/v/VDJEzSlVMc8?fs=1&

Wynton Kelly
http://www.youtube.com/v/3bud9AZ7xBM?fs=1&

Paul Chambers
http://www.youtube.com/v/CZeWQmA-X_A?fs=1&

Chet Baker
http://www.youtube.com/v/_EHx6Frrueo?fs=1&

Modern Jazz Quartet
http://www.youtube.com/v/ZY_byFYO8Fo?fs=1&

 


救急

2011年01月12日 | なんだいまあ(何だこりゃが念仏になった)
年の暮の出来事だった。
サイレンが聞こえ、すぐ近くで止まった。
駐車場に消防車が来ている。前の道路にもう1台。



どこからも煙の出ている様子はない。

しばらくして救急車が来た。
見下ろして眺めているのも気がとがめるので部屋に入ったが、救急車が出て行くまでにだいぶ時間が経った。
超小型のボヤだったのか。

後で聞いたら、救急車を頼んだときに他に出ていて、とりあえず消防車が駆け付けてくれたのだという。消防隊員も救急手当てができるからか。
2台はどうかと思うが、とにかく現場に駆けつける、ということになっているのだろうか。
もしそのときどこかで火事があったら、そうか、火事現場がこちらに近ければ、ここからのほうが早い。反対だったら。
いや、よかれと思ってやってくれていること、余計なことは考えまい。

これが出収めにしてほしいという願いを込めて、活動状況を見せるのも行政サービスの一環だった。

眩い

2011年01月11日 | なんだいまあ(何だこりゃが念仏になった)

眩さに人はしばしば惑わされる。




眩さが嫌だと思っても、悪い感じはしないのは、視力の限度を超えた強いものだからだろう。

今晩あたり、眼が痛くなりそうだと、この光を見たときには思っていたが、そうならなかった。

光が強い割りにはやわらかかったからか。

あるいは、痛くなるのを覚悟して見るのと、不意に照らされるのとの違いだろうか。


ビックリ療法というのもあるが、辛いことを我慢させようと思ったら、思いつきのように急に言い出しては、しくじることが多いのだ。


成人の日

2011年01月10日 | なんだいまあ(何だこりゃが念仏になった)
「おとなになったことを自覚し、みずから生き抜こうとする青年を祝いはげます」
今日がその日だという。

おとな・自覚・みずから・生き抜く・青年、この五つのキーワードを、今年が20歳の人々は、ときどきは思い出してほしい。



むずかしい言葉は一つもない。
説明を求める言葉でもない。
みずから問うことのできるのが青年、それに自覚をもって答えられるのがおとなである。
何があろうと生き抜く道は、そこから拓けてくる。

雑音騒音

2011年01月09日 | なんだいまあ(何だこりゃが念仏になった)
雑音と騒音、どちらを先に持ってこようかと考えたが、50音順に従うのが日本語としては自然とみるだけの理由を立てて雑音騒音としてみる。
50音の意義には、無考判断の道具というのもあった。

四文字熟語が一時はやったらしいが、ものごと四文字だけでは意味が通じないことが多い。
「有言実行」と言ってみたところで、何の話かわからない。
「有言実行無香料」いや違った、「有言実行無綱領」とすれば、ああ、あそこの話かと見当がつくようになる。

「雑音騒音」もこれだけでは無意味だが、「雑音騒音ゲーム音」とすれば、負の効果のイメージがすぐに浮かんでくる。

こんな話をなぜ持ち出したかというと、ラジオで「ちかごろ羽根つきの姿が見られなくなった」と、ことさらばなしを聞いたからである。
羽根つきをしなくなったのは、音がうるさいと無粋なことを言う人間が増えたからと言いたかったのか。
羽子板に桐の板を使った上物が昔あった。桐は軽いからかと思っていたが、音がキンキンとあたまに響かないのでよかったのかもしれない。



羽根つきの音も一種のゲーム音だが、ゲーム機の音、これはたまらない。
あれこそ雑音騒音と名付けるにふさわしい。
小型の手に持てるものでさえ、うるさくて仕方がないのに、それが何台も並んだ部屋に、朝から晩まで座り込んでいれば頭もおかしくなるだろう。頭がおかしくならなければ、そう何時間も続けてはいられない。
夏ごろには、また車の中に子供を閉じ込めておいて昇天させてしまうほどゲームに夢中になる狂母が出てくる。
これも雑音騒音ゲーム音がもたらす大きな負の効果のひとつだろう。

変身

2011年01月08日 | なんだいまあ(何だこりゃが念仏になった)
まっ黒な球にちょっと手を触れると、角や羽が飛び出してべたっと這いつくばる。
奇怪なおもちゃを孫が得意げに見せる。


私らが子供のころのおもちゃは、せいぜいびっくり箱で、全形の変わってしまうものはなかった。

人は、目で見ているものが変わると面白がる。変わることが約束されていれば、面白いと見るのだ。
耳で聞いたことは、それが変わると話が違うと不服を言い出す。はじめから変わると聞かされればしらける。

選挙用マニフェストも、変わるかも知れないとわかっていながら変わらないものだと言ってしまうから話がややこしくなる。
書いてしまってむりやり変わらないところを見せようとすれば、見当違いの結果を招き寄せ、皆が迷惑することになる。八ッ場ダムが適例ではないか。
決してそのとおりにはならない無根拠なことを書き並べる選挙用マニフェストは、有害文書に属する。
どうせあてにならないから読みもしなかったが、そのおかげで腹立たしさが割引きされた。あれは読まないでよかった。

冬休み

2011年01月07日 | なんだいまあ(何だこりゃが念仏になった)
砂浜に、カートと呼ぶのか、キャリアーというのか、海に浮かべるものを乗せて運ぶ道具が置いてある。
海の遊びも冬休み、遊び道具も冬休み。



こういうものをじっと眺めていると、いろいろなことを思いつく。

これは遊びで道具を乗せて運ぶものだが、仕事で人を乗せて運ぶならタクシー。
ここは海のそばだが、海上タクシーというものはまだないなあ。

この浜に発着所があって、東京湾横断は邪魔になるから遠慮しても、横浜、江ノ島、熱海あたりまで、沿岸沿いにスーッと行けたら便利だろう。
エンジンでなくモーターで走る、海上エコ・タクシー。

交差点

2011年01月06日 | なんだいまあ(何だこりゃが念仏になった)


ここの交差点が、こんなに混むのは、年に二回。
元日の朝と、花火の夜。
二回のうち、陽の当たっているのは、年に一度。

365日見張って確かめたわけではないが、多分そうだろう。
ガソリンスタンドの人に聞いてみようか。
答えがわかっているからやめておく。
「そうですねぇ、私は毎日来てないので・・・」

日影

2011年01月04日 | なんだいまあ(何だこりゃが念仏になった)
ものの形は、影で見ると面白く見えることがある。
だた日の当たっているだけのときには、気にもならなかった道ばたの風景が、影の部分を含むことによって、新鮮に眼に写ることがある。



日の当たりかたには形がないが、影の差しかたには形が現れる。
影と日のあたっている部分との形の組み合わせは、年に一度しかまったく同じになる機会はない。
しかも、同じ日付のその時間に、同じように晴れて日が当たることはまずないだろう。
天候が同じでも、次の年には建物の様子は変わる。壁に影を落としている樹の姿も変わる。

そこに見た形は、一生のうちにもう一度見ることはできない。
目に入ったものは、だいじに見たくなる。
人の話を聴くのも同じことなのだろう。

一歩一歩

2011年01月03日 | なんだいまあ(何だこりゃが念仏になった)
人はなぜ走るのか。
なぜ走ることで競うのか。
それが心体を元気付け、勇気を出させる、いちばんわかりやすい行為だから。



一人ひとり、一歩一歩の進め方が違う。それが工夫、訓練、環境によって変わる。
目標の置き方もただ一つに限らない。いろいろな一位がある。

勝つことに向かって競うことから、進歩が生まれる。
競うことを放棄すれば、進歩は止まる。

二位でよいなどと思えば、はじめから負け。
そういう競い方から、強者は生まれないのだ。

貸切

2011年01月02日 | なんだいまあ(何だこりゃが念仏になった)
初日の出を見ようと何人かが集まったのだろう。
元日の朝の店先であった。
単なる商法でない、暖かそうな感じがそこにあった。


「貸切なの」ときけば、「どうぞ」と招き入れてくれたかもしれない、そんな店の人の雰囲気だった。
帰れば雑煮が待っているから、そこでトン汁を食べようという気にもならず、「貸切の札が気に入ったので」と写真だけ撮らせてもらった。

脇に立って待っていてくれるので、「写真に入ってもらうといいのですが、顔は写らないようにしますから」と言ってから、しまったと思った。
「初日のようなその晴れやかな顔を撮らせてください」と言えばよかった。