さよなら三角 また来て四角...日本編☆第二章☆

オーストラリアから10年ぶりに帰国。特別支援教育に携わりながら
市民農園・家庭菜園に励んでいます。

どうして学校にいかなくちゃいけないの?

2010年06月10日 13時47分49秒 | Web log
前も話したけれど、ベンジャミンが毎朝「今日は学校?」と聞く。
今日は学校じゃないよという答えを期待しながら、恐々と聞く。
「今日は学校だよ」というと怒りながら、泣き出す。

そして私も思う「どうして学校に行かなくちゃいけないんだろう」

教育を受けさせる義務と受ける権利だって学校で習ったっけね。

そして学校が、集団生活とか社会性を養う場所でもある。

でも、長い間学校が苦痛だったわたしには、そんな理由なんて説得力あまりなかったし、どうでもよかった。

嫌なものは嫌だった。

ベンジャミンの担任の先生が「人生は、やりたいことでなく、やらなければならないことの方が多い。嫌でもやらなくちゃいけないことは、やらなくちゃいけない。そういうことを小さいときから体で学んだほうがいいんです。」と言う。

ま、先生が言うことは理解できるけれどね。

極端な話、わたしたちは「生きるために生きている」わけだから、教育を受ける権利と教育を受けさせる義務という強制力を除けば、学校に行かなくたって、生きていけるのなら行かなくてもいいと思うんですけれど。

学校に行かないことによって発生する不利益への代償を払うことを覚悟できているなら。

今は、狩猟とか農耕で生き延びる時代ではないので(そうやって生きている人もいるけど)、直接自分がそういう原始的な活動に関与したくないなら、自分の代わりに何かをしてくれる人に対して、報酬としてお金を払ってそれを獲得するという構造が出来上がっている。

ので、お金を稼ぐために必要な知識とかスキルを得るために教育があるんだろうと思う。

加えて、一生懸命勉強して、いい大学入って、いい会社に入って、『たくさんお金をもらう=より多くのものを獲得できるようになる』というのが、成功とか幸せの条件みたいになってしまった。

そして、そういう構造から逸脱することへの不安から、いやいやながらでも学校に行き、病んでまでも働かなくちゃいけなくなってしまった。

自分に鞭打って学校に行ったり、働いたりってすごく偉いことだと思います。

でも、実際、つらいよね。

でも、現実問題として、それ以外に選択肢がなければそうするしかないと思い込んでしまう。

でも、本当にそれ以外に選択肢がないのかなぁ。

実際の話、選択肢はあるんだと思う。

でも、その選択肢は、きっと大変な道で、敷かれたレールを歩いたほうが、手っ取り早く、簡単なのかも。

あるいは、選択肢がありそうでほとんどない、あるいはそこまで危険を冒してまでその選択肢を選ぶのは無理なんじゃない?というのが現実に限りなく近く、誰しもが『やりなおしのきかない可能性が高い社会構造』を肌で感じて、不安に駆り立てられているからなんだろうな、と思う。

なんとかならないのかなぁ。

せめて、なんらかの受け皿があればね。

署名

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