今日はベンジャミンのモンテッソーリスクール最後の日。
今朝もベンジャミンは「半日でお迎えにきてね」と言い、教室の前で入るのをためらう。
そういう後ろ向きな態度に「私たちの決断は正しかったんだ」と思うと同時に、子供の感情に左右されて、途中でやめてしまうことを決めたことが本当に正しかったのかどうか、考えてしまい何とも言えない複雑な気持ちになってしまった。
でも、私に限って言えば、何かが終わるとき、何かを決断するときというのは、両極端な気持ちが相俟って存在することが多いような気がする。
慣れた環境が終わることの寂しさと、未知なる環境がどんなものかわからない不安がつきまとう。
ま、この世に完璧なものがありえない限り、すべてにプラスとマイナスの面が存在することを思えば、理論的に『すべての決断に間違いはない』とも言える。
どちらの要素を見るかで、決断が『正しかった』『間違いだった』という答えが導き出されるに過ぎない。
仮に『間違いだった』という答えを導き出すことがあったにしても、『間違いだった』ということですら、決断を下し、決断に応じた行動を取り、結果を見、そうしてからでなければ導き出せないわけだから、たとえ間違いであったとしても、間違いだという答えを導くためには、その過程が必要だったのだろう。
人生に公式のようなものがあって、それに当てはめればすべてうまくいくというようなものがあれば別だけれど、そうはいかない。
そしたら人生は常にバラ色だろうし、何の苦労も、痛みも、悲しみも何にもない。
でも、それは違う。
人生の負の要素を受けるのが怖いから、逃げているだけにすぎない。
ある種の責任放棄。
漠然とした不安を抱えながら、自分の足でしっかりと立ち、現実を柔軟に受け止めていく柔らかな心で、毎日を歩いていくには、過信ではなく、『自信』がないといけないんだなぁ、と思う。
『自信』、英語では Self Confidence というのだけれど、自分を信頼するってことになるんだろう。
自信がないと、自分以外の何かにすがろうとする。
そして支えてもらおうと思う。
社会的地位(職業)だったり、学校だったり、評判だったり、お金だったり、哲学だったり、宗教だったり、誰かがこう言ったとか、先生がああ言ったとか、隣人だったり、友達だったり、家族だったり、ありとあらゆるものがその対象になりうる。
でも、最終的には『自分』を信頼すること。信頼って大げさだけれど、自分の足でしっかり立つってことかな。
それしかないのだな、と思う。
(じゃ、自分って何? なんて、哲学的な質問はやめてくださいね。泥沼にはまるから。『われ思うゆえに、我あり。』くらいにとどめておきましょう。)
最終的には自分しかないという事実を引き受けて立ち、過程で起こりうるすべての事象(いいことも、悪いことも)を受け止めて、歩き続ける。
何にも寄りかからない。
そこに『強さ』があるということを意識するだけで、物の見え方、受け止め方が違ってくるような気がする。
そういうことを学んだだけでも、今回の経験は自分にとって、とっても良かった。
たかが子供の学校(幼稚園)ごときでね。
大げさな。
今朝もベンジャミンは「半日でお迎えにきてね」と言い、教室の前で入るのをためらう。
そういう後ろ向きな態度に「私たちの決断は正しかったんだ」と思うと同時に、子供の感情に左右されて、途中でやめてしまうことを決めたことが本当に正しかったのかどうか、考えてしまい何とも言えない複雑な気持ちになってしまった。
でも、私に限って言えば、何かが終わるとき、何かを決断するときというのは、両極端な気持ちが相俟って存在することが多いような気がする。
慣れた環境が終わることの寂しさと、未知なる環境がどんなものかわからない不安がつきまとう。
ま、この世に完璧なものがありえない限り、すべてにプラスとマイナスの面が存在することを思えば、理論的に『すべての決断に間違いはない』とも言える。
どちらの要素を見るかで、決断が『正しかった』『間違いだった』という答えが導き出されるに過ぎない。
仮に『間違いだった』という答えを導き出すことがあったにしても、『間違いだった』ということですら、決断を下し、決断に応じた行動を取り、結果を見、そうしてからでなければ導き出せないわけだから、たとえ間違いであったとしても、間違いだという答えを導くためには、その過程が必要だったのだろう。
人生に公式のようなものがあって、それに当てはめればすべてうまくいくというようなものがあれば別だけれど、そうはいかない。
そしたら人生は常にバラ色だろうし、何の苦労も、痛みも、悲しみも何にもない。
でも、それは違う。
人生の負の要素を受けるのが怖いから、逃げているだけにすぎない。
ある種の責任放棄。
漠然とした不安を抱えながら、自分の足でしっかりと立ち、現実を柔軟に受け止めていく柔らかな心で、毎日を歩いていくには、過信ではなく、『自信』がないといけないんだなぁ、と思う。
『自信』、英語では Self Confidence というのだけれど、自分を信頼するってことになるんだろう。
自信がないと、自分以外の何かにすがろうとする。
そして支えてもらおうと思う。
社会的地位(職業)だったり、学校だったり、評判だったり、お金だったり、哲学だったり、宗教だったり、誰かがこう言ったとか、先生がああ言ったとか、隣人だったり、友達だったり、家族だったり、ありとあらゆるものがその対象になりうる。
でも、最終的には『自分』を信頼すること。信頼って大げさだけれど、自分の足でしっかり立つってことかな。
それしかないのだな、と思う。
(じゃ、自分って何? なんて、哲学的な質問はやめてくださいね。泥沼にはまるから。『われ思うゆえに、我あり。』くらいにとどめておきましょう。)
最終的には自分しかないという事実を引き受けて立ち、過程で起こりうるすべての事象(いいことも、悪いことも)を受け止めて、歩き続ける。
何にも寄りかからない。
そこに『強さ』があるということを意識するだけで、物の見え方、受け止め方が違ってくるような気がする。
そういうことを学んだだけでも、今回の経験は自分にとって、とっても良かった。
たかが子供の学校(幼稚園)ごときでね。
大げさな。