南無煩悩大菩薩

今日是好日也

人格(人柄)形成は一生かけて追及するものである。

2020-07-18 | 壹弍の賛詩悟録句樂帳。
(picture/source)
 
刺激への反応は瞬時に起きるのではない。その合間に私たちはどう対応するかを選択でき、対応の仕方には自身の成長と自由が投影される。
 
-ヴィクトール・フランクル
 
Agnes Obel - Under Giant Trees (Official Audio)
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ろ。

2020-04-30 | 壹弍の賛詩悟録句樂帳。
(picture/source)

水が深ければ、服を脱ぎ泳いで渡る。

浅ければ、裾をまくり歩いて渡る。

櫓は浅瀬では役に立ちません、竿は挿そうとしても深みでは届きません。

時折々に従い、無理してことをやる必要はないのです。

求めても得られぬものは、青空や雨や花咲くころ。求めなくても来るものは生病老死。

それは道理。道理と言うものには従うしかありません。

G minor Bach/ピアノタイル2【オルゴール】
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妄念掃えば屈託なし

2020-04-26 | 壹弍の賛詩悟録句樂帳。
/鳥山石燕)

むかし飛騨の山中に、檜の木の長枌(ながへぎ)をこしらえ、世渡りとする男がいました。ある日例のごとく、山に入りて、細工をする折から、前なる杉の木の陰に、背の高い山伏が、おもいがけなく立っていました。

かの細工人大いに怪しみ、さても山伏は、天狗そうなと思ううち、かの山伏大声をあげて、「我を天狗そうなと思いおるぞ」と言う。細工人いよいよ怪しみ、これは嫌なことじゃ、早く逃げ帰らんと思えば、かの山伏また声をかけ、「これは嫌なことじゃ、早く逃げ帰らんと思いおるぞ」と言う。

細工人、慌て騒いで、長枌をたわめ、急に荷ごしらえするとき、手が外れて、枌板一枚はずみに飛んで、かの山伏の鼻柱へきびしく当たれば、山伏一驚を食らい、「さてさておのれは、気の知れぬ男かな」と言うかとおもえば、かき消すように失せました。

・・是、かの天狗も、人の念慮の起こるところは、忽(たちまち)に知りますれど、念慮の起きぬさきには、長枌のはじけることは夢にも知らぬ、これ知るべき道理がないによってです。さるによって、一念起こると、天地神明に通じ、世界中へ、筒抜けになりまする。

この一念の萌(きざ)さぬうちは、鬼神も計り知ることができません。

なぜなれば、測り知るべきすべがないからであります。

念慮萌(きざ)されば、鬼神も知ることなし。

-抜粋/「鳩翁道話」より
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従容として道に中る

2020-04-13 | 壹弍の賛詩悟録句樂帳。
(picture/source)

天の命これを性という、性に率うこれを道という、道を修むる之を教えという。-中庸

中庸では、従容(しょうよう)として道に中(あた)るは聖人なりと云っている。

従容とは、無造作、無分別、無知、無心のことで、ただ、何ともなく、時に中るの自然の妙を云う。

誠は天の道なり、これを誠にするは人の道なり。誠は天理自然の道、すなわち本心の事。

本心を思い、本心のごとくありたい、と顧みるのがこれを誠にする人の道。

誠は勉めることなく中るを思わずとも得るとは、何の造作もなく、また思慮分別もいらず、唯本心の指図に従えば、萬(よろず)のことみな程よく出来る。

これですでに中庸に叶うので、はなはだ楽である。この楽な味が、すなわち聖人の心持である。

これこのこころもち、楽というものなのであります。
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The Thinker

2020-02-23 | 壹弍の賛詩悟録句樂帳。
(picture/source)

みるところ花にあらずということなし。おもうところ月にあらずということなし。

Gary Girouard - The Thinker


紫式部も、マルセル・プルーストも、芭蕉も、利休も、ディオゲネスも陶淵明も、白隠も盤珪も、いわんや、あなたやわたしまで。

The Thinker ではないということがあろうはずもない。


(photo/source)

音「ね」はあげるものではなく、効かすものでありたい。

思考(かんがえかた)は、外壁を造るものではなく、内壁を壊すものでありたい。
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影を慕いて

2020-02-19 | 壹弍の賛詩悟録句樂帳。
(photo/original unknown)

池水に夜な夜な影は映れども
     水も濁らず月も汚れず

Archie Shepp & Abdullah Ibrahim (Dollar Brand)- LEFT ALONE -


出会いと別れの、極意である。
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気品の所在

2020-02-14 | 壹弍の賛詩悟録句樂帳。
(photo/source)

梅花の感じは、気品の感じである。

それはまた、梅花の香である、薄すらと霧こめた未明の微光に、或は淋しい冬日の明るみに、或は佗びしい夕の靄に、或は冷々とした夜気に、仄かに織り込まれて、捉え難く触れ難く、ただ脈々と漂ってる、一種独特の梅花の香は、俗塵を絶した気品の香である。その香を感じてその花を求むるは、俗であり愚である。花の在処を求めずに、漂い来る芳香に心を澄す時、人は気品の本体を識るであろう。

気品はまた、一の凛乎たる気魄である。衆に媚びず、孤独を恐れず、自己の力によって自ら立ち、驕らず卑下せず、霜雪の寒にも自若として、己自身に微笑みかくる、揺ぎなき気魄である。肥大ならず、矮小ならず、膨張せず、萎縮せず、賑かからず、淋しからず、ただあるがままに満ち足って、空疎を知らず、漲溢を知らず、恐るることなく、蔑むことなき、清爽たる気魄である。

それはまた、梅花の気魄である。霜雪の寒さを凌ぎ、自らの力で花を開き、春に魁けして微笑み、而も驕ることなく、卑下することなく、爛漫たる賑かさもなく、荒凉たる淋しさもなく、ただ静に己の分を守って、寒空に芳香を漂わしてる姿は、まさに気品そのものの気魄である。しみじみと梅花に見入る時、恐怖や蔑視や悲哀や歓喜など、凡て心を乱すが如き情は静まって、ただ気高き気品の気魄に、人は自ら打たるるであろう。

ー豊島与志雄[梅花の気品」より

"Jej Portret" by Włodzimierz Nahorny and Krzysztof Woliński

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ねがひ

2020-02-11 | 壹弍の賛詩悟録句樂帳。
何処か知らない遠いところを思い ただそっと座っている
来るものは来る 形のあるものは無くなる 善も悪もない
何処か知らない遠いところを思い ただそっと座っている

手に粗末な器を一つ持ち 米を欲しいでもなく 欲しくないでもなく
ぼーっと広く そして優しく一つところを見て
この地の上に 黙って立っている

そんなふうにありたい。

遠く、遠く突き出た岬のはな、右も、左も、まん前もすべて浪、浪、
僅かに自分のしりへに陸が続く。
そんなところに、いつまでも、立っていたい。

咲き、散り、咲き、散る
とりどりの花のすがたを、まばたきもせずに見ていたい。
萌えては枯れ、枯れては落つる、
落葉樹の葉のすがたをも、また。

山と山とが相迫り、迫り迫って其処にかすかな水が生れる。
岩には苔、苔には花、
花から花の下を、伝い、滴り、
やがては相寄って 岩のはなから落つる
ひとすじの糸のような まっしろな瀧を、ひねもす見て暮したい。

いつでも、ほほえみを、眼に、こころに、やどしていたい。

自分のうしろ姿が、いつでも見えてるように 生きたい。

日本国中にある 樹のすがたと、その名を、知りたい。

おもう時に、おもうものが、飲みたい。

欲しい時に、燐寸(まっち)よ、あってくれ。

煙草の味が、いつでも うまくてくれ。

麦酒が いつも、冷えてると、いい。

(参照抜粋 / 草野天平「ひとつの道」、若山牧水「空想と願望」より)
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ちょっとキケロ

2020-02-01 | 壹弍の賛詩悟録句樂帳。
(Quote /Cicero)

いいもできない、説きもできない、思議もできない。

不可称、不可説、不可思議。とはそういうことだ。

過ぎたことをあれこれ思いへたれ、と言われるも仕方なく。

まだ来ぬことをあれこれ思いあほくさ、と言われるも仕方なし。

ということは多々ある、なるほどともそう思う。不可称、不可説、不可思議。

ああそうであったか・・・。と得心には至らずとも、自らを触発啓発してくれる人々や場面環境、その鼓動は探せばそこここに脈打ち私を包み込んでいる。

そこにある片鱗に触れてなんとなくいい心持になったとしたら、いわんや逆に憮然たるもそれはそれ、頓着無し。

Beethoven #7, 2nd Movement
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是也此之 我今成奈里

2020-01-20 | 壹弍の賛詩悟録句樂帳。
(photo source/Hiroshi Watanable [Riki-Baka])

-これなり これこれ わたしはいまなるなり- とは円空さんの受け売りである。

-眼横鼻直- がんのうびちょく 道元さんは仏法の本質を問われてそう答えたらしい。 眼は横に着き鼻は縦に伸びている。それそれそのまんま。

今日に生きる つまり life to live である。

小泉八雲さんは「力ばか」と言う話を掘り出した。

これらはすべからく、是也此之 我今成奈里 ということではないか。

つまれうまれるところ、他日あることなし、である。
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人生肯定の道

2019-12-29 | 壹弍の賛詩悟録句樂帳。
(photo/original unknown)

私は人生を肯定できている者ではありません。しかし、人生を肯定したいと思って今日まで歩いてきたもので、私の一生はこの一つの目的に集中されて来たといっていいのであります。

私たちは人生に対して何等の要求をする資格もない者であります。人生がどんなにつまらない、無意味なものであっても、生まれた以上は仕方のないものであります。私たちはつくられたままに生きてゆくより仕方がないので、どんなにまずくつくられていても、私たちは不平は言えないのであります。

言えるかもしれませんが、言ってもどうにもならないものであります。例えば我々が蛇身のような姿につくられていても、我々は何ともしようがないのであります。

私は指は六本あったらいいとは思いません。目は三つ欲しかったとも思いません。人間の手以上の手を欲しいとも思わず、人間の身体以上の身体を持ちたいとも思いません。もっとも、顔や身体の出来のよしあしについては、いろいろ注文したいこともないとは言えませんが、人間であることに不服はないわけであります。

私はそれ以上、人間の心の出来に不服を持たないものです。人間の心がどうつくられているか。私はそれを自分が十分知っているとは思いませんが。しかし私の知れる限りでも、人間の心は良く出来ていると思うので、私はその点、ことにありがたいと思っているもので、その結果、私は人生は肯定できるものではないかと考えるようになり、今日までそのために骨折って来たわけです。

骨折ったと言っても、別に大して骨折ったわけではありませんが、しかし私の考えの中心は、まず自分の生命を肯定したい、そして人間に生まれたすべての人の生命を肯定してあげたい、これが私の本願でした。

このことを最近、私は確実に知ることが出来たのであります。今までも今日ほどはっきりそのことを自覚してはいませんでしたが、その目標を目指して歩いて来たのは事実と思います。人間以外の動物は自分の生命の無意味さを痛感する能力を与えられていないように思うのです。彼らは自然に生き、自然に死ぬ。生の喜びと、死の苦しみ、恐怖は痛感させられているのでしょうが、何のために生きなければならないかということは考える必要はないのだとおもいます。

ところが人間になると、いろいろ考える能力を与えられている結果、自然のままに生きることで満足せず、自分勝手にいろいろ考える結果、「自分が生きて何になる」というような、自己否定の考えさえ抱くようになったのであります。

人間はこの世で苦しんで生き、その結果、最後に死苦がある。人間に生まれなかった方がよかったのだ。そう考える人さえ出て来たのです。むしろ正直に言って、私たちも人間の生きる不安をいつも感じさせられているわけで人生否定の方が、人生肯定よりずっと安価に持つことを我々は強いられているわけで、考えない人は別ですが、少しでも考える人は、人生肯定なぞは、出来ない話のように思っている人が多いのではないかと思います。

そして、多くの人は考えると人生が面白くなくなるので、なるべく考えないことにしているというのが現状ではないかと思われるのです。少なくとも私にはそう思われるのですが、私はそれで満足出来ないのです。そして何とかして人生は無意味なものではない、空虚なものではない。生き甲斐のあるものだということを自分で信じ切りたいと思っているのです。さもなければ生きていることはあまりに空虚で、淋しすぎます。そうはお思いになりませんか。

人間は無意味に生まれ、無意味に死ぬものとは思わないのです。私は人間は生まれるべくして生まれ、死すべくして死ぬものだと思われるのです。花が咲いて散るようなものです。咲くのも自然、散るのも自然、自然は両者をよしと見ている。私はそう考えているのです。

つまり私たちは生まれるべくして生まれたのであります。この世に奇跡が行われないとすれば我々は、生まれるべくして生まれたのであります。善悪正邪以上の力で人間は生まれるべくして生まれたのであります。何が我々が生まれることを望んだか、私にはわかりません。しかし原因があって結果があるのです。何かの力がなくして我々は生まれるわけはないのです。

子供が生まれれば、皆めでたいと言う。生まれた子供も、生々と生きられる時は、実に元気で、いつも嬉しそうにしている。この力を私は知らないのです。しかしその力を私は信じるのです。内からあふれる生命力、まず私はそれを信じるのです。本来の生命、自然はそれに何処までも生きよと命じているのです。

この命令は我々にとって絶対と言っていいのであります。私たちが今日まで生きて来られた原動力はこの力であります。しかしこの力は他の生物にとっては無批判に生かされて来たのですが、人間になって、その力は理性的に生かすことを命じられたのであります。

ここに人間の人間たる所があるわけです。ですから我々はこの与えられた理性で我々の内からの生命をよく生かしてゆけば、自然からよしと見られるわけで自然からよしと見られることは、自己の生命が自然に肯定されたことになるので自然から肯定された生命はすなわち内心から肯定された生命になるのです。つまり人生を肯定したいものは、自然から肯定される生活をすればいいわけであります。

ですから私は、自然の深い意思に沿って生きることを心がけ、また人々にもそれをおすすめしたいとおもうのであります。人生は理屈ではありません。理屈でわからないことだらけです。しかし実感で自然の愛を感じられ、ありがた涙を流すことが出来ればそれでいいのです。

ある尊敬する老いたる文豪は死ぬとき「さわやかだ」といって死んだそうですが、さわやかさを実感して死ねれば、それでいいのではないですか。人生は美しい、私はそれを知って生きてゆきたい。

ところがこの世には愚かなものが多すぎて、人生の美しさを知らず、花が爛漫と咲匂っている下を歩きながら、何か金でも落っこっていないかと探して、無いのでちまなこになって、人生は醜いと言っている人が少なくないのではないのですか、もとより今の世の中は、人生の美を知らない人々によってつくられているので、醜いことだらけ、悲惨なことだらけと言えるかもしれませんが、それは人生が悪いのではなく、人間が愚かなのだと思います。

自分の中の梁(うつばり)を気にしないで、他人の目の中の塵を気にするものが実に多く、好んで自分を不幸にしているもの、世の中を不幸にしているもの、他人を不幸にしているもの、真理に背中を向けているものが実に多い。そういう人ばかりと言いたいくらいです。しかし我々は誇張してものを考えるのをやめましょう。存外世の中にはいい人が多い、真面目な人が多い、親切な人が多い、善良な人が多いと思っていいのだと思います。

そしてそれらの人は意識しないけれど、自然から愛されている平和な勤勉な人々であります。しかしそれらの人は深い自然の意志を知っているわけではありませんから、何ものにも動かされない落ち着きを持っているわけではありません。偶然幸福な時が多いのにすぎません。我等はそれで満足はできません。我等は人生を肯定する道を、すべての人と一緒に前進し、すべての人が自然の意志に適うように、生きることを望んでやみません。それはつまり、すべての人が最も深い内心の欲求で、本来の姿をそのまま正しく生かすことです。

自我心も、恋愛も、夫婦の愛も、博愛も、自然の意志、人類の意志に適った形において貴いのです。虚偽であってはならないのです。またどんな逆境でも、孤独な時でもその人が全力を出して、自分のなすべきことをなすとき、最も力強い生命がその人の体内に、あるいは精神的にあふれ出て、その人に生き甲斐を与えるのであります。

日々決心を新たにして、自己の本来の生命を完(まった)き姿で生かそうとするもの、その人こそ人生肯定の道を歩いている人と言えるわけです。

理屈ではなく、実感で、全心全身で人生を肯定出来る道をお歩きください。このことはいかなるときでも、人間が生きている限り、可能なことであります。それを信じて生き抜いて下さい。

-抜粋参照/武者小路実篤「真理先生」より
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‘それ’から‘これ’から

2019-12-19 | 壹弍の賛詩悟録句樂帳。
(quote/source)

とにかく自分自身に正直になり、自分が動揺していることを認めます。

私たちの内部にそれが存在し、自分では気づきませんが、私たちを制御する力を持ちます。それからどうして自分が動揺しているのか考えます。

仏教徒はこれにしっかり向き合っていますね。仏陀はすべての人為的ジレンマの根本は、自己中心主義にあると教えました。

自分自身に打ち勝てば、こうした衝突に勝つことができます。

自分自身が克服出来たら、そこから、責任をもって状況について考えることができるようになります。

「無欲か利己主義か。一日を通して問い続けることを勧めたい」。

-マイケル・カリー

Billie Holiday - I'm A Fool to Want You.
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潮干潮満

2019-12-14 | 壹弍の賛詩悟録句樂帳。
/狩野探幽)

‘世の中に たえてさくらの なかりせば春のこころは のどけからまし.’

在原業平は齢五十をすぎた。一夜限りの共寝を遂げた恬子(やすこ)斎王は齢三十にして退下し尼となられた。業平、待ちに待ち久方ぶりに恬子様より願いごとの誘いあって喜び勇み庵へと赴く。

・・・

業平に、恬子様が声をかけられます。
「・・・お願いと申すのは、この杉(伊勢の方)でございます。今日まで長く私に仕え、縁付くこともなく参りましたのを、かねがね心痛めておりました。都へ戻りしのちには、良き縁などあればと案じておりましたが、このような山里の暮らしでございます。業平殿のおそばに・・・・」

業平は驚き、しばらく言の葉も出ません。妾か妻に、との申し出でございます。

「・・・どうぞ業平殿、このまま杉をお連れなされて、都へお戻りくださいませ。杉には言い含めてございます」

業平、恬子様の頼みに呆れ、思い惑います。恬子様の願いとは、若いこの女人を預け頼まれることであったとは。

お答えできぬまま、しばし時がたち、伊勢の方(杉)が、伏せておられた面をあげられ、そしてキリリと張りのある声にて、申されたのです。

「・・・私は業平殿の元へ参ります。内親王(恬子)の願いに背くことは致しませぬ。ではございますが、妾にも妻にもなりませぬ。私はこのような年寄りは好みませぬ。下女としてお仕え致します」

業平、あまりにいさぎよい伊勢(杉)の声に、思わず笑い声をたてました。このように自らの心を言いつのる女人がおられようとは。

「ならば急ぎ、お発ちください。お二方のお背を、屏風の内より垣間見にて、お送りいたします」

業平、笑いがたちまち心苦しさへと変じ、袖を顔に当て息を止めております。

「・・・このような願い事など、思いも及ばぬことでありました」

「今生は儚く、あの世もまた朧にて、すべて夢かうつつか判らぬまま・・・・」お別れいたします。

・・・

都へ連れ戻りました伊勢の方(杉)でございますが、高倉邸の「西の対」にしばらくお住まいになられました。

このような年寄りは好みませぬ。

恬子様の御前にて、ありのままのお気持ちを申されたのは、業平の胸に刺さりおります。

この御方の優れたところはまさにこの直なお気持ち。

さよう、私は年老いた。

業平は五十を過ぎたわが身を、静かに眺めております。

業平も、若き頃のように、強いて「西の対」を訪ねることをいたしません。この御方の気丈さを楽しみに面白がっております。

たとえば、老いたればこそ、あの白き明るさの満ちた伊勢へ、共に行き住みたいものだと誘い試すと、このような歌を返してまいります。

「大淀の浜に生ふてふみるからに 心はなぎぬ語らはねども」
-伊勢の国の大淀の浜に生えていると申す海松(みる)ではございませんが、私はあなた様のお顔を見るだけで、心は穏やかに満ちております。共寝などしなくとも。

いつもながらに連れない様子。とは申せ、歌の才は見事でございます。

共寝より歌の遣り取りこそ面白い。などと思う業平です。

-切抜引用/高樹のぶ子「小説伊勢物語 業平」より

‘つゆにゆく 道とはかねて聞きしかど 昨日今日(きのふけふ)とは 思はざりしを’

業平、辞世の句といわれている。
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奥義は思量を絶す

2019-11-27 | 壹弍の賛詩悟録句樂帳。
(illustration/source)

‘千尺の崖の上で木の枝を口にくわえ、手足をすべて放して口だけでぶら下がっている時、仏法の極意を尋ねる人があったらどう答えるか。

口を開けばたちまち墜落して喪身失命し、答えなければ不親切である。さあ、どうする。口を開かなくても仏法の極意を伝えることはできるはずだ。’ -香厳禅師


香厳禅師とその師との問答では、こんなもある。

「生まれてから学んだことは一切問わない。この世に生まれてくる前、西も東も分からないときの汝の本分について一句を言ってみよ」

「本分の事とはどういうものか教えてください」

「たとえ教えることができたとしても、それは私の見解であって汝の眼目を開く役には立たない」

そこで持てる本をすべて漁ってみたが答が見つからなかったので、香厳禅師はため息をついて言った。

「絵に描いた餅は飢えを充たしてくれない」

そして文字を読み漁って心を疲れさせるよりも、飯炊きをして皆のために尽くそうと決心し、本をことごとく焼き捨てたという。


また西洋にはこんな話を聞いた。

『聖書を開いたら、ページが白紙だった。神様に「何かありがたいお言葉はいただけないのですか?」と聞くと、

「あなたが書き込みなさい」という声がした。』

HAVASI — 道 (Official Music Video)
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三方よし

2019-11-17 | 壹弍の賛詩悟録句樂帳。
(gif/source)

その昔、二宮尊徳翁が、広大な竹林を金をかけずに畑に変えられないか、とある人から相談を受けた。

翁は一年猶予の条件つきでそれを引き受けた。

春先、竹林に生えたタケノコを、無料で人々に開放し掘らせた。

あいた穴に山芋を植えた。

そして竹を伐採し、はげ山にした。

秋になるとこれまた無料で山芋を掘らせた。

山芋は深く掘らないと収穫できない。

かくて竹林は、大勢の人の手で労せずして掘り返された。

竹の根も燃料に配られた。

そうやって誰も損することなくウィン・ウィン・ウィンのうちに、ただで畑地ができたという。
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