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画/狩野探幽)
‘世の中に たえてさくらの なかりせば春のこころは のどけからまし.’
在原業平は齢五十をすぎた。一夜限りの共寝を遂げた恬子(やすこ)斎王は齢三十にして退下し尼となられた。業平、待ちに待ち久方ぶりに恬子様より願いごとの誘いあって喜び勇み庵へと赴く。
・・・
業平に、恬子様が声をかけられます。
「・・・お願いと申すのは、この杉(伊勢の方)でございます。今日まで長く私に仕え、縁付くこともなく参りましたのを、かねがね心痛めておりました。都へ戻りしのちには、良き縁などあればと案じておりましたが、このような山里の暮らしでございます。業平殿のおそばに・・・・」
業平は驚き、しばらく言の葉も出ません。妾か妻に、との申し出でございます。
「・・・どうぞ業平殿、このまま杉をお連れなされて、都へお戻りくださいませ。杉には言い含めてございます」
業平、恬子様の頼みに呆れ、思い惑います。恬子様の願いとは、若いこの女人を預け頼まれることであったとは。
お答えできぬまま、しばし時がたち、伊勢の方(杉)が、伏せておられた面をあげられ、そしてキリリと張りのある声にて、申されたのです。
「・・・私は業平殿の元へ参ります。内親王(恬子)の願いに背くことは致しませぬ。ではございますが、妾にも妻にもなりませぬ。私はこのような年寄りは好みませぬ。下女としてお仕え致します」
業平、あまりにいさぎよい伊勢(杉)の声に、思わず笑い声をたてました。このように自らの心を言いつのる女人がおられようとは。
「ならば急ぎ、お発ちください。お二方のお背を、屏風の内より垣間見にて、お送りいたします」
業平、笑いがたちまち心苦しさへと変じ、袖を顔に当て息を止めております。
「・・・このような願い事など、思いも及ばぬことでありました」
「今生は儚く、あの世もまた朧にて、すべて夢かうつつか判らぬまま・・・・」お別れいたします。
・・・
都へ連れ戻りました伊勢の方(杉)でございますが、高倉邸の「西の対」にしばらくお住まいになられました。
このような年寄りは好みませぬ。
恬子様の御前にて、ありのままのお気持ちを申されたのは、業平の胸に刺さりおります。
この御方の優れたところはまさにこの直なお気持ち。
さよう、私は年老いた。
業平は五十を過ぎたわが身を、静かに眺めております。
業平も、若き頃のように、強いて「西の対」を訪ねることをいたしません。この御方の気丈さを楽しみに面白がっております。
たとえば、老いたればこそ、あの白き明るさの満ちた伊勢へ、共に行き住みたいものだと誘い試すと、このような歌を返してまいります。
「大淀の浜に生ふてふみるからに 心はなぎぬ語らはねども」
-伊勢の国の大淀の浜に生えていると申す海松(みる)ではございませんが、私はあなた様のお顔を見るだけで、心は穏やかに満ちております。共寝などしなくとも。
いつもながらに連れない様子。とは申せ、歌の才は見事でございます。
共寝より歌の遣り取りこそ面白い。などと思う業平です。
-切抜引用/高樹のぶ子「小説伊勢物語 業平」より
‘つゆにゆく 道とはかねて聞きしかど 昨日今日(きのふけふ)とは 思はざりしを’
業平、辞世の句といわれている。