セザンヌやモネ、ルノワールなどに代表される印象派と呼ばれる作品は、網膜細胞をある限定下において光を感じた時の印象を写実したものではなかろうか。
とふとおもう。
言っている本人も言いたいことを捕まえきれていないのですから、読んでおられる諸兄諸姉においては、なにをかいわんやの心境でありましょうが、しばしお付き合いを。
ただ、ありんこの涙を見てみたいと思うように、網膜レベルでの視覚を脳は現実的視覚としては受け取らないのも確かなのであります。
つまり、例えば、モザイクで隠された映像は、眼を細めてみれば見える。なんていうまことしやかな噂も、現実には見たことのある記憶がそのあたりの補助補正を行っている。と考えられる。
見たことがなければ、隠された部分はイメージできないのであります。
中には、ブラウン管に映ったミニスカートを下から覗いて、パンツ見えた!などとのたまうのは、完全に妄想でありましょう。
もとい。
ひょっとしたら、芸術家達は、網膜での像を光を、ある程度までに捕まえられたのではないかと思うのであります。
人は、何事にも自分自身の中に様々な可能性を確かに秘めている。とそんなことから思い、嬉しくなるのも、芸術鑑賞の楽しみと言えましょう。
写真は、網の膜で覆われた野菜畑の盛り土の中の逃げ出せない蝶と収穫から残された葉っぱを拙者が接写してみたものであります。
小生には、なんだか印象派の作家になった気分を味わえてしまった。
そんな気がしてならないのであります。
なにをかいわんや。