見えない風を、画に取り込もうとするなら、媒体に頼ることになる。
風という触媒は、竹を媒体にみえないものの存在と役割を教えてくれる。
見えないものを、可視化させるためには、2次的なものを豊かに現し且つ見る眼の想像力に委ねるしかない。
私のかいた風は、やはり硬い。風が作られている。とってつけた取り繕い。
基本的な表現技術が稚拙な由縁である。
心技がおろそかな為に、体をなさないのだ。
上手く見せようとする事で、かえって違うものを見せてしまうことがよくある。
見えていないにも拘らず、見えていると錯覚することがよくある。
かいてみることで、至らなさを知ることは大事なことだ。
それが恥であったとしても。
見えないものを少しでも豊かに感じられるようになれば、少しは風をつかまえられるのかもしれない。
それはもう、実際の風竹に教わるしかない。