南無煩悩大菩薩

今日是好日也

観念を調理する。

2010-06-03 | つれづれの風景。

交合についての観念を哲学者ならこんな風に言う、これは内部の摩擦といくらかの痙攣を伴う粘液の分泌である。なんて。

私たちの日常生活のあらゆるところで、観念 は幅を利かす。


あのひとが僕に優しくしてくれるのは、僕が男前だからだ。
これは、のうてんきな思い込み。

あのひとが僕に優しくしてくれるのは、隙を見て僕を刺そうとしているからだ。
これは、強迫観念。

どちらも事実としての用をなしていない。


肉料理は、こういっちゃあみもふたもないが、何らかの動物の死体を食するための行為である。
みもふたもなくても、観念としては事実である。


事実を事実としてうまく料理するためには、観念の調理に負うところが多いのかもしれない。

コメント
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