型にはまった日常の些事は、哲学や詩の最高峰と同じ水準の、文化の理想についてのコメントになっている。
というようなことを、誰かが言っていた。
茶の湯や華道、剣の道や合気道なども、その練り上げられた型には秀麗碩学の尊見を覚える。
修行というものは、その型を自分自身に取り入れ、弛まない精神の養成と維持を容易足らしめる基本を創ることにあるようにも受け取れる。
お正月に、修行僧とおぼしめき五名の和尚が歩いていた。
・・もし、二人で歩いていたなら、これが本当の おしょうがつー ですな。
こんなあたしは、まったく修行がなっていないのである。