南無煩悩大菩薩

今日是好日也

妄念掃えば屈託なし

2020-04-26 | 壹弍の賛詩悟録句樂帳。
/鳥山石燕)

むかし飛騨の山中に、檜の木の長枌(ながへぎ)をこしらえ、世渡りとする男がいました。ある日例のごとく、山に入りて、細工をする折から、前なる杉の木の陰に、背の高い山伏が、おもいがけなく立っていました。

かの細工人大いに怪しみ、さても山伏は、天狗そうなと思ううち、かの山伏大声をあげて、「我を天狗そうなと思いおるぞ」と言う。細工人いよいよ怪しみ、これは嫌なことじゃ、早く逃げ帰らんと思えば、かの山伏また声をかけ、「これは嫌なことじゃ、早く逃げ帰らんと思いおるぞ」と言う。

細工人、慌て騒いで、長枌をたわめ、急に荷ごしらえするとき、手が外れて、枌板一枚はずみに飛んで、かの山伏の鼻柱へきびしく当たれば、山伏一驚を食らい、「さてさておのれは、気の知れぬ男かな」と言うかとおもえば、かき消すように失せました。

・・是、かの天狗も、人の念慮の起こるところは、忽(たちまち)に知りますれど、念慮の起きぬさきには、長枌のはじけることは夢にも知らぬ、これ知るべき道理がないによってです。さるによって、一念起こると、天地神明に通じ、世界中へ、筒抜けになりまする。

この一念の萌(きざ)さぬうちは、鬼神も計り知ることができません。

なぜなれば、測り知るべきすべがないからであります。

念慮萌(きざ)されば、鬼神も知ることなし。

-抜粋/「鳩翁道話」より
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする