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はい! あ~ん してね。
あ~ん!
離乳食開始時の幼児 もしくは 熱烈的求愛行動中のカップル あるいは 知的呆け症候群の人への介護風景。
この3者に共通なのは、甘える 光景である。
ただ、自我においては決定的に違う。
前者と後者は 甘えて はいない。 甘んじている もしくは 甘んじざるを得ない。ということ。
甘えは 許される ものと 許されない ことがあるようだ。
誕生。 成長過程。 終息。
それぞれの 当該における 到達への道には 尽力 と呼ばれる機能が存在する。
尽力者は 多種多様無尽蔵に存在しえるだろう。
おっぱいは~ おとうちゃんのためにあるんやないんやで~。
と歌ったのは確か 月亭可朝さん。
確かに甘んじざるを得ない。
この場合 甘えてみたくなるのは 男の性。 甘えさせるのは 女の性。
何かの到達の為には尽力される何かがある。
甘えるのか 甘んじるかは 当人次第であることだろう。
吾十有語にして 学を志す。
三十にして 立つ。
四十にして 惑わず。
五十にして 天命を知る。
六十にして 耳順う。
七十にして 心の欲するままに行うも矩を超えず。
孔子さんは そういって自らの人生を励ました。
ひとつのアイコンを作成してくれたのである。
創造と消滅。
到達と尽力。
どこかに潜む死生の意味。
何かに到達する為の尽力。
甘えるも甘えざるも。死生なり。
未だ 生を知らず。
いずくんぞ 死を知らん。
咲くつぼみ 残るつぼみも 咲くつぼみ。
散る桜 残る桜も 散る桜。
まだまだでんなぁ。しぬるまで。
死生観音。南無大志遍照根合。
南無煩悩大菩薩。
先生が、宴でブログの毎日の更新が苦味で
ありましたなら、とても安心致しました。
たぶん、多才なお仕事をしておられますので
そのお疲れかと・・失礼致しました
色紙は、離乳食を母から戴いております
赤ちゃんでしょうか。わたくしには、胎内で
栄養を貰っている赤ちゃんに見えます。
人は母の胎内で命が芽生えましてから、末期の水
を戴くまで”いずくんぞ死を知らん”と、生への
執着は消えないのではと思います。
幼い頃からお念仏と言いますと
”南無大師遍照金剛”を唱えてきました。
にもかかわらず、わたくしは
先生に、甘んじているのではなく、甘えてる
でもなく、厚かましい・・ですが、やっぱり
先生が大好きです。
どうぞ、甘んじて・・甘えさせて下さいませ。
明日も良い日でありますように・・
うっかりの、わたくし
死生観音 様 には
「南無大志遍照根合」と、唱えますことお誓い
申し上げます。 合掌
愚禿のそれは、なむだいしへんじょうこんごう。という音への当て字に過ぎません。ご利益は期待できませんので、どうか本家でお願いします。私のは辿る遍ではなく偏って照らす可能性があります。
ありがとうございました。