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パンデミックの日本での出現からはや一年が過ぎた。
我々はこの一年で多くのことを経験してきた。この病気とその流行の仕方に関しての科学的知識も蓄積されてきた。この経験と知識の集積はわれわれに学びをもたらすべきもの。確かに医療の面で確実に学びはあった。
だが一般生活でどうだったのか。わからないことがわかり、間違えていたことを確実な知識に基づき正しく変えていく。それが学びに期待されるとして、われわれは本当に学んでいたのか。
今も変わらず末端ではおかしなことが散見される。小学校の運動会、大いに盛り上がるリレー競争が中止でみながっかり。どうもバトンの受け渡しが感染リスクらしい。どこにいっても、目障りなアクリル板があり、駅のベンチは一つおき、多くの死者が出ているのに遺体の扱いも改まらない。多くの人がこんなのはおかしいと変だと感じているのに、一向に修正できない。いったいなぜ?この事態の打破のためにはどこを相手にどう変えていけばよいのか。
まず相手である。一義的には行政、専門家と言われる人たちとマスメディアである。先に著した「正しく恐れる」で私は、彼らの一般の人々へのミスリーディングを非難してきた。次に一般の人々である。本書ではさらに、社会でこの一年の学びが行動に現れない問題も取り上げた。たとえば子どもの保護者と学校の問題、市中でのアリバイづくり的対応の蔓延など。
たとえば、面倒なので自分からは始めないとか、とにかく自分関連から不都合は出さないという保身とか、あるいは世間に対する忖度とか・・。もはや一般の人々が常に一方的被害者であるとする漠然たる前提が、きわめて甘かったと言わざるを得ない。
多くの人が、ときに大本営発表かと思われるような大手メディアが内容の精査もなく流す誤りを含む情報をそのまま受け取り、あるいは「専門家」や素人批評家が「政府は手ぬるい」と激しく批判するのを見聞きさせられている。
メディアはまた、自分に何ら影響も無さそうな通りがかりの人の「なんで飲食店の時短をもっと厳しくやらないのか」という勝手で無責任な声を街の声として報道し、たまに探し出してくる苦しい人の声については悲惨さを強調するだけ。別にそこに手を差し伸べるわけではない。
隣組の監視よろしく自粛警察、マスク警察が跋扈。メディアは自分たちの報道の仕方にもその責任の一端があるのに、そのことの自覚もない。そして、当の本人たちは自分たちが非難されているとは思っていない・・という図式がある。
「私たちはパンデミックと戦っているのではない。この社会と戦っているのだ」これは友人の作家が拙訳書「ワクチン、いかに決断するか」の帯に寄せてくれた言葉である。この本は、「可能性」の話が大統領まで伝わるうちに「これから起きること」になってしまい国家的大騒動を引き起こしてしまった、米国で実際に起きたリスク・コミュニケーション(リスコミ)の失敗の典型例に関する報告書である。
もし今、去年から日本で起きていることの本質を一言で表せと言われたら。私はこの「リスコミのまずさ」を挙げたい。それは「専門家」の誤った解説のメディアによる垂れ流しだったり、行政の説明や発表の仕方であったりする。
たとえば、当初からの手指による感染の過剰な脅しと空気感染の無視であり、一方で最近は、世界的に空気感染が認められそうな気配を感じてか、一転して「変異株」の出現とペアにした空気感染の恐ろしさの植え付けである。新旧どちらもいたるところにウィルスがうようよいるような恐怖感を人々に与え、やり過ぎを招いている。
話を戻すと、私の向かう相手は、行政、「専門家」、マスメディアそして世間一般の新型コロナ対策の中にある誤りが延々と続けられる「理不尽」である。それは「社会」の理不尽である。
つぎは闘い方である。私はその手の理不尽と闘ってきた。だが、それは、何か大きな怪物に逆らっているだけで、結局は「蟷螂の斧」に過ぎない。時にそれを思い知らされる。私は、ひとは皆自分の持ち場でそのときどきに精一杯やればいいと思っている。結果がどうなろうと、自分の持ち場で自分の闘いをすればよい。そう考えねばやっていけない。
この「あとがき」を書いている最中に一つの悲しい報道があった。一人の小学生が体育の授業でマスクをつけたまま持久走をしていて亡くなったという。夏に向けて「外の体育の授業ではマスクを着けなくてもよい」との文科省通達があったにもかかわらずという。むろん着用が死因とは断定できない。たしかに医学的には直接的原因は別かもしれない。だが、着用による息苦しさが引き金となった可能性は高く、それを無視し続ければ、同様なことがまた起きかねない。
子供の健康のことを考えればマスクは外させるべきであり、子供の心理まで考えたら、指導は「着けなくてもよい」とか「心配なら着けてもよい」ではなく、「外しなさい」であるべきである。
私は怒っている。この怒りは、もしかしたら「蟷螂の斧」などと言っている自分自身に対してかもしれない。
-切抜抜粋/西村秀一「正しく恐れるⅡ」あとがきより
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