(gif-black hole/source)
大福や羊羹、みたらし団子など、甘味といったら和菓子しか知らない人を想像してみましょう。和菓子しか知らないとはいっても、テレビなどのようなメディアを通じて、アンコ以外にも、クリームを用いた甘味が存在すること、和菓子もひっくるめてそういった甘味をスイーツというらしいことは、彼も知っています。
その彼の目の前にチーズケーキが置かれています。周囲の人たちの様子から、彼はこれがスイーツであることはわかっているのですが、どのようなスイーツであるのかはまるでわからない。
ここに、スイーツとしては既に知っている(既知)、しかしスイーツの細目に関しては知らない(未知)、という状況が成立しています。
彼が一人称的知性を有するとしましょう。この知性は、知覚できないものは存在しない、と考える知性です。それは知覚したものから構成される、記憶の世界でも同じことです。記憶の中から、自分が今思い出している領域とそうでない領域が分離しない場合には、全部の記憶が押し寄せて来ます。分離した場合には、思い出さない部分は存在しないものとされ、思い出した部分だけが的確に想起されます。この知性は「分離」の知性なのです。
一人称的知性は、的確な分離を実現できない分離の知性です。従って、知覚された世界の外部は、存在しないものと見なされますが、目の前のチーズケーキの解釈に対して、記憶の全てが動員されることになります。それはスイーツである。しかし何であるか同定できない。つまり自分のスイーツのリストに存在しない。すると、もしかして、スイーツではないのではないか。スイーツであることと、スイーツでないことは、こうして同時に俎上にあげられ、スイーツであるか否かさえ決定できないことになります。
極端な一人称的知性を考えてみましょう。それはスイーツかスイーツでないか、の決定に留まりません。それはスイーツでないとしたら、何なのだろう。猫かも知れない。しかし猫のリストにもない。では猫ではないのかもしれない。いや猫でありスイーツであるという可能性はないのか。二つの性格の重ね合わせで、わかりにくいだけではないか。いやそうではない・・・・・こういったイメージの暴走が延々と続くことになります。自分と関係のあるものを、過剰に摂取し溜め込んでしまい、意味のない可能なデータの組み合わせが、野放図に実現される。
これこそが、悪夢です。人工知能が実現する、記憶の組み合わせの暴走をアートとして見せる試みが、ディープ・ドリームですが、それは一人称的知性のなせる業なのです。
(切抜/郡司ペギオ幸夫「天然知能」より)
Journey on the Deep Dream
大福や羊羹、みたらし団子など、甘味といったら和菓子しか知らない人を想像してみましょう。和菓子しか知らないとはいっても、テレビなどのようなメディアを通じて、アンコ以外にも、クリームを用いた甘味が存在すること、和菓子もひっくるめてそういった甘味をスイーツというらしいことは、彼も知っています。
その彼の目の前にチーズケーキが置かれています。周囲の人たちの様子から、彼はこれがスイーツであることはわかっているのですが、どのようなスイーツであるのかはまるでわからない。
ここに、スイーツとしては既に知っている(既知)、しかしスイーツの細目に関しては知らない(未知)、という状況が成立しています。
彼が一人称的知性を有するとしましょう。この知性は、知覚できないものは存在しない、と考える知性です。それは知覚したものから構成される、記憶の世界でも同じことです。記憶の中から、自分が今思い出している領域とそうでない領域が分離しない場合には、全部の記憶が押し寄せて来ます。分離した場合には、思い出さない部分は存在しないものとされ、思い出した部分だけが的確に想起されます。この知性は「分離」の知性なのです。
一人称的知性は、的確な分離を実現できない分離の知性です。従って、知覚された世界の外部は、存在しないものと見なされますが、目の前のチーズケーキの解釈に対して、記憶の全てが動員されることになります。それはスイーツである。しかし何であるか同定できない。つまり自分のスイーツのリストに存在しない。すると、もしかして、スイーツではないのではないか。スイーツであることと、スイーツでないことは、こうして同時に俎上にあげられ、スイーツであるか否かさえ決定できないことになります。
極端な一人称的知性を考えてみましょう。それはスイーツかスイーツでないか、の決定に留まりません。それはスイーツでないとしたら、何なのだろう。猫かも知れない。しかし猫のリストにもない。では猫ではないのかもしれない。いや猫でありスイーツであるという可能性はないのか。二つの性格の重ね合わせで、わかりにくいだけではないか。いやそうではない・・・・・こういったイメージの暴走が延々と続くことになります。自分と関係のあるものを、過剰に摂取し溜め込んでしまい、意味のない可能なデータの組み合わせが、野放図に実現される。
これこそが、悪夢です。人工知能が実現する、記憶の組み合わせの暴走をアートとして見せる試みが、ディープ・ドリームですが、それは一人称的知性のなせる業なのです。
(切抜/郡司ペギオ幸夫「天然知能」より)
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