(photo/JAPON ~ JAPONAIS / Charles-Henri Favrod & Yoichi Midorikawa)
『ある日、沢庵和尚は千代田城に赴いた折、名うての荒武者、伊達政宗に会った。
政宗が「雨の降る日は天気が悪うござるが、どうしたものでござるな」
沢庵和尚はジッと政宗をみた、政宗は瑞巌寺の和尚に参じて禅も出来た武士である。
「左様、雨の降る日は天気が悪うござるな」
と、同じようなことを沢庵も繰り返した」。
ある日鷹狩の帰りに一天俄かに掻き曇り、雨は篠を突くようにザアザア降ってきた。政宗も家来も濡れ鼠のように、眼もあてられない。すると今まで野良かせぎをしていたらしい百姓が、「雨の降る日にゃ天気が悪い・・・」と大声で唄って行った。
その時、政宗は百姓の声を聞いて「ははぁ、ここだな」と、初めて沢庵禅師の言葉の意味が分かった。その時の彼の心持は家来どもが雨に濡れて困っている様子を見て気の毒に思う憐みの情以外の何物でも無かった。
つまり我を捨てたのである。我を捨ててこそ会得が可能なのである。・・・』
ー引用/谷至道「禪の極致を洒脱に説いた澤庵和尚」より
分かり切っていることが並び立っているということは、分かり切っているというその己の心持に疑いを問うという禅味のことではあるまいか。
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