小学生の頃学校文集があった。全校生徒180人分ほどの作文を一冊にまとめたものを、年1回全員が配布された。文集名は「たけのやま」。別所温泉の象徴となっている山の名前からとっている。
実家の今は使われていない部屋の本棚でそれを見つけた。
表紙は子供の版画。全校生徒分の作文が、ほとんど同じ筆跡でガリ版が切られている。所々に子供が書いたと思われるイラストが入る。
校長先生の言葉に続き、1年生から順に学年ごとに色紙中表紙が入り、目次、そして作文へと続く。記録によると昭和40年度が第5号。号を重ね、途中から先生、用務員さん、給食のおばさん、図書館のおばさんも、学校の人全員が作文を寄せている。
2月頃だっただろうか。その年の「たけのやま」を持ち帰ると、家族全員で全ページを回し読みしたものだった。
子供の作文だから、家族のことや家庭の様子が赤裸々に書かれている。だから大人たちも興味津々で読んだのかもしれない。どこそこのうちは旅行で海に行ってきたとか、親戚が大阪にいるとか、お父さんとお母さんがけんかした、など家庭の諸事情がよくわかる。今みたいに個人情報云々など言及する価値観はなかった時代だからできたのだろうか。
子供ながらにこの作文を書く際は、大人が読むことを意識していた記憶がある。年間何度となく行事が終わるごとに作文を書く。その他読書感想文、生活作文、創作、詩など。これらから担任が代表作を一つ選ぶ。先生から「たけのやま」にこれを載せると発表される日をドキドキして迎えたものだった。なかには載せるために手直しさせられていた子がいたような記憶もある。
これを作った先生方のご苦労は大層なものだったことが今ならわかる。
丁寧な手書きで、印刷機のない時代に全校生徒180人分を手刷りし、製本したのだから。
実家にあったものは兄が小1~6年生までの6冊だった。自分のはない。どこへやってしまったのだろう。
だから自分の作文は1年生から4年生の分までしか読み直すことができない。
まず最初に自分のを読む。次に同級生のを読む。そして次に兄のを読む。
1,2年生の頃のは、ありのままが載せられていたように思う。3年生からは読者を意識して書いている。これを後にむさぼり読む村の大人たちの目を気にして脚色した部分がある。兄の記述は全く気取らず、別所弁丸出しの子供同士のやりとりが延々と書かれ、当時の子供の遊びがよくわかる。そんな話を兄にすると、「あれは嘘を書いただ」とこれまで封印してきたと思われる暴露話が披露された。遊んでいてニワトリの餌を決められた時間にやらなかった。しかしそのまま書くと、餌やりを忘れていたことが先生にばれて怒られるから、時間の流れを変えて書いたのだそうだ。
そうか、兄は兄なりに読者を意識して書いていたんだ。
多分全員がそうなんだろう。背伸びしたり、気取ったりして、変なことは書かないようにしたのだろう。
それでも今読み返すと、当時の別所小学校の様子がまざまざと浮かび上がってくる。当時の子供たちや家庭の生活が見えてくる。
こういう作文集はどこの小学校もやっているのだと思っていた。
書き出しの校長先生の挨拶文によると、これは別所小学校独自のものだとわかった。
素晴らしいものを残してくださった、当時の先生方に感謝の気持ちで一杯です。
入学前の1967年、「たけの山」第六号、校長先生結びに言葉より。
わたくしたちはこれをだいじに使って勉強の役にたてたり、おたがいの心の結びつきに利用してこれからもずっと続く「たけのやま」とともに、別所の名山たけの山のように、姿美しくがっちりした人になりましょう。
実家の今は使われていない部屋の本棚でそれを見つけた。
表紙は子供の版画。全校生徒分の作文が、ほとんど同じ筆跡でガリ版が切られている。所々に子供が書いたと思われるイラストが入る。
校長先生の言葉に続き、1年生から順に学年ごとに色紙中表紙が入り、目次、そして作文へと続く。記録によると昭和40年度が第5号。号を重ね、途中から先生、用務員さん、給食のおばさん、図書館のおばさんも、学校の人全員が作文を寄せている。
2月頃だっただろうか。その年の「たけのやま」を持ち帰ると、家族全員で全ページを回し読みしたものだった。
子供の作文だから、家族のことや家庭の様子が赤裸々に書かれている。だから大人たちも興味津々で読んだのかもしれない。どこそこのうちは旅行で海に行ってきたとか、親戚が大阪にいるとか、お父さんとお母さんがけんかした、など家庭の諸事情がよくわかる。今みたいに個人情報云々など言及する価値観はなかった時代だからできたのだろうか。
子供ながらにこの作文を書く際は、大人が読むことを意識していた記憶がある。年間何度となく行事が終わるごとに作文を書く。その他読書感想文、生活作文、創作、詩など。これらから担任が代表作を一つ選ぶ。先生から「たけのやま」にこれを載せると発表される日をドキドキして迎えたものだった。なかには載せるために手直しさせられていた子がいたような記憶もある。
これを作った先生方のご苦労は大層なものだったことが今ならわかる。
丁寧な手書きで、印刷機のない時代に全校生徒180人分を手刷りし、製本したのだから。
実家にあったものは兄が小1~6年生までの6冊だった。自分のはない。どこへやってしまったのだろう。
だから自分の作文は1年生から4年生の分までしか読み直すことができない。
まず最初に自分のを読む。次に同級生のを読む。そして次に兄のを読む。
1,2年生の頃のは、ありのままが載せられていたように思う。3年生からは読者を意識して書いている。これを後にむさぼり読む村の大人たちの目を気にして脚色した部分がある。兄の記述は全く気取らず、別所弁丸出しの子供同士のやりとりが延々と書かれ、当時の子供の遊びがよくわかる。そんな話を兄にすると、「あれは嘘を書いただ」とこれまで封印してきたと思われる暴露話が披露された。遊んでいてニワトリの餌を決められた時間にやらなかった。しかしそのまま書くと、餌やりを忘れていたことが先生にばれて怒られるから、時間の流れを変えて書いたのだそうだ。
そうか、兄は兄なりに読者を意識して書いていたんだ。
多分全員がそうなんだろう。背伸びしたり、気取ったりして、変なことは書かないようにしたのだろう。
それでも今読み返すと、当時の別所小学校の様子がまざまざと浮かび上がってくる。当時の子供たちや家庭の生活が見えてくる。
こういう作文集はどこの小学校もやっているのだと思っていた。
書き出しの校長先生の挨拶文によると、これは別所小学校独自のものだとわかった。
素晴らしいものを残してくださった、当時の先生方に感謝の気持ちで一杯です。
入学前の1967年、「たけの山」第六号、校長先生結びに言葉より。
わたくしたちはこれをだいじに使って勉強の役にたてたり、おたがいの心の結びつきに利用してこれからもずっと続く「たけのやま」とともに、別所の名山たけの山のように、姿美しくがっちりした人になりましょう。