この鑑賞が各方面の方々を傷つけることにならないか恐れつつもパソコンに向かっている。曲タイトル「I Give You My Friendship」に、私は社会人一年目の秋の母教会の学び会リーダーの言葉を思い出す。
その頃の私は、会社の人や教会のクリスチャンなど周りの一挙手一投足によって、家族関係のトラウマを無造作に触られるような悲痛な疼きに苦しめられていた。社会人一年目の出来事については詳述しない。ここでは「I Give You My Friendship(あなたに友情をあげるよ)」の言葉と、それと関わるトラウマについて書くことにする。
私は、単に社交性が無かったとも言えるが、昔から群れずに生きてきた。しかしそんな私でも中学に入った頃には無性に人恋しくなり、友達を渇望するようになっていった。だがどういう風に友達を作っていいか分からない私は、向こうから声をかけてくる人の聞き役になるのが精々だった。中二の時にクラスに転入してきたMちゃんは漫画を描く人で、下手ながらも漫画やイラストを描いていた私はそのうち彼女の家によく遊びに行くようになった。彼女に影響されて「キャプテン翼」や少年ジャンプを読むようになり、遊びに行った時はいつもただ楽しかったことを覚えている。小学生の頃は友達の家に入り浸りになるなんてことがなかったからか、母は物凄く心配して神経を尖らせた。実は彼女は、ご両親が離婚されていて、一緒に住んでいるお母様はお勤めに出ていた。彼女はたびたび私の家にも電話をかけてきたが、母はその都度外野で大声で電話に割り込んできた。そしてある時私達の電話中に、「Mちゃんと付き合うと、○○(私)が不良になる。親が離婚しているんだから!」と言い放った。Mちゃんと私は押し黙り、電話を切った。後日彼女に聞いたら、あの電話の後、皿を二枚投げつけて割ったということであった。Mちゃんとの交友関係は自然に消滅した。
父を早くに亡くし女手一つで育った母は、経済的な事情から兄(私の伯父)に進学の道を譲り、大学進学を諦めたという経緯があったため、私を何としてでも大学に入れたい気持ちが強かった。高校受験で失敗した私に大学の推薦入学を取らせたこともその一方途だった。そのため母は、高二になった私に毎週日曜の朝になると教会へ行けと追い立てた。私は女性が経済的に自立しないと、結婚相手に暴力を振るわれても我慢するしかないのだと強力に刷り込まれていたため、嫌々ながら仕方なく従った。そして死に物狂いで掴んだ推薦入学だった。合格が決まって少し経った頃、母は私に専攻は何にするのかと訊いた。私が政治学だと答えると、「くだらない!」と侮蔑。じゃあ何なら良かったのよ?と問い詰めていくと、母自身が好きだった建築学か、化学など理系の学問だったら良かったようだ。私は数学も理科も大の苦手。元々が「美大に行きたい」と高一の時に母に言ったら「あんた程度の実力で……!」とせせら笑われ、美大なんて入るのに金ばっかりかかるだけと却下されたのである。専攻だって、理系は無理だけど社会科学系の方が就職に良かろうと判断して決めたのに、結局母は私を自分の夢の実現の駒としか思っていなかったのだな、と悔しくてやり切れなくて、入学前から虚無感に襲われた。
そんな思春期を過ごした私は、好きになった人・ものは何でも奪い上げられるという思い込みが強くなり、自分が何かに思い入れることに対して大層臆病になっていった。何かに心が傾き始めると(好きになればなるだけ自分が傷つく……)と防衛反応が働いた。人に好かれ始めると、嫌われようと相手を傷つける言動に出てしまう。——こうした傾向は徐々に薄れてきたとは言え、本当につい最近まで尾を引いていたように思う。
ひっそりとした午後の公園で
とりとめのない話をした
言葉が途切れても君を見たら
微笑んでたから安心だった
今もわからずにいる
私が君の友達で良かったか
約束守っている
今にも壊れそうだけど
「I Give You My Friendship」に話を戻す。社会人一年目の秋の学び会リーダーは、近づこうとする人を斬って捨てるような態度に出やすい私に「神様は『○○ちゃんに友達をあげるよ』と言っているんだよ」と言った。それがどういうことなのか、その当時の私にはあまり理解できていなかった気がする。人を好きになること、何かを好きになることへのハードルが低くなるまでには、私自身の傷が癒されること、そして長い時間が必要だった。
気を緩めたら沈みそうな船で
私たちは航海を続けた
今もわからないまま
私が君の友達であるために
約束守っている
今もわからないまま
明日も視えないけど
大丈夫、まかせてと笑って
辻褄のあうシンパシー
視えない明日を見るため
その頃の私は、会社の人や教会のクリスチャンなど周りの一挙手一投足によって、家族関係のトラウマを無造作に触られるような悲痛な疼きに苦しめられていた。社会人一年目の出来事については詳述しない。ここでは「I Give You My Friendship(あなたに友情をあげるよ)」の言葉と、それと関わるトラウマについて書くことにする。
私は、単に社交性が無かったとも言えるが、昔から群れずに生きてきた。しかしそんな私でも中学に入った頃には無性に人恋しくなり、友達を渇望するようになっていった。だがどういう風に友達を作っていいか分からない私は、向こうから声をかけてくる人の聞き役になるのが精々だった。中二の時にクラスに転入してきたMちゃんは漫画を描く人で、下手ながらも漫画やイラストを描いていた私はそのうち彼女の家によく遊びに行くようになった。彼女に影響されて「キャプテン翼」や少年ジャンプを読むようになり、遊びに行った時はいつもただ楽しかったことを覚えている。小学生の頃は友達の家に入り浸りになるなんてことがなかったからか、母は物凄く心配して神経を尖らせた。実は彼女は、ご両親が離婚されていて、一緒に住んでいるお母様はお勤めに出ていた。彼女はたびたび私の家にも電話をかけてきたが、母はその都度外野で大声で電話に割り込んできた。そしてある時私達の電話中に、「Mちゃんと付き合うと、○○(私)が不良になる。親が離婚しているんだから!」と言い放った。Mちゃんと私は押し黙り、電話を切った。後日彼女に聞いたら、あの電話の後、皿を二枚投げつけて割ったということであった。Mちゃんとの交友関係は自然に消滅した。
父を早くに亡くし女手一つで育った母は、経済的な事情から兄(私の伯父)に進学の道を譲り、大学進学を諦めたという経緯があったため、私を何としてでも大学に入れたい気持ちが強かった。高校受験で失敗した私に大学の推薦入学を取らせたこともその一方途だった。そのため母は、高二になった私に毎週日曜の朝になると教会へ行けと追い立てた。私は女性が経済的に自立しないと、結婚相手に暴力を振るわれても我慢するしかないのだと強力に刷り込まれていたため、嫌々ながら仕方なく従った。そして死に物狂いで掴んだ推薦入学だった。合格が決まって少し経った頃、母は私に専攻は何にするのかと訊いた。私が政治学だと答えると、「くだらない!」と侮蔑。じゃあ何なら良かったのよ?と問い詰めていくと、母自身が好きだった建築学か、化学など理系の学問だったら良かったようだ。私は数学も理科も大の苦手。元々が「美大に行きたい」と高一の時に母に言ったら「あんた程度の実力で……!」とせせら笑われ、美大なんて入るのに金ばっかりかかるだけと却下されたのである。専攻だって、理系は無理だけど社会科学系の方が就職に良かろうと判断して決めたのに、結局母は私を自分の夢の実現の駒としか思っていなかったのだな、と悔しくてやり切れなくて、入学前から虚無感に襲われた。
そんな思春期を過ごした私は、好きになった人・ものは何でも奪い上げられるという思い込みが強くなり、自分が何かに思い入れることに対して大層臆病になっていった。何かに心が傾き始めると(好きになればなるだけ自分が傷つく……)と防衛反応が働いた。人に好かれ始めると、嫌われようと相手を傷つける言動に出てしまう。——こうした傾向は徐々に薄れてきたとは言え、本当につい最近まで尾を引いていたように思う。
ひっそりとした午後の公園で
とりとめのない話をした
言葉が途切れても君を見たら
微笑んでたから安心だった
今もわからずにいる
私が君の友達で良かったか
約束守っている
今にも壊れそうだけど
〜 Monkeymind You Cube Band 「I Give You My Friendship」より
「I Give You My Friendship」に話を戻す。社会人一年目の秋の学び会リーダーは、近づこうとする人を斬って捨てるような態度に出やすい私に「神様は『○○ちゃんに友達をあげるよ』と言っているんだよ」と言った。それがどういうことなのか、その当時の私にはあまり理解できていなかった気がする。人を好きになること、何かを好きになることへのハードルが低くなるまでには、私自身の傷が癒されること、そして長い時間が必要だった。
気を緩めたら沈みそうな船で
私たちは航海を続けた
今もわからないまま
私が君の友達であるために
約束守っている
今もわからないまま
明日も視えないけど
大丈夫、まかせてと笑って
辻褄のあうシンパシー
視えない明日を見るため
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