私は小さい頃はよく大人から可愛がられていた。でも、誰かから「可愛い!」と言われた後は兄に暴力を振るわれたので、次第に(可愛がられるから暴力を受けるんだよ!可愛がるなよ!)と逆恨みするになっていった。そして、【女だから暴力を振るわれる。可愛いから暴力を振るわれる。】というマインドになっていった(今思うと、何つー傲慢か!と判るが)。これが相当ひねくれた根性である自覚が、理屈上でなく実感できるようになったのは、本当につい最近である(ここ二週間くらい)。
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<新改訳第三版 イザヤ書45章9〜10節>
ああ。陶器が陶器を作る者に抗議するように自分を造った者に抗議する者。粘土は、形造る者に、「何を作るのか。」とか、「あなたの作った物には、手がついていない。」などと言うであろうか。ああ。自分の父に「なぜ、子どもを生むのか。」と言い、母に「なぜ、産みの苦しみをするのか。」と言う者。
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この聖句は長いこと理解できなかった。私は(いいじゃん抗議したって)と思っていた。女に生まれてロクなことは無かったという思いしか無かったのだ。
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少し話は飛ぶが、ここ二年くらいの間に作業所でのやり取り等を通じて、(あぁ人が、何かに対して率直な感想をポロッと小声で言うのは、その人の自由なんだな)ということが分かってきた(だからと言って、自分の思いを長々と蓄え込んで全て行動にまで適用すべきではないけれどね)。人に対して可愛いと思うのも、誰かに対し(何、それ!)と思ってムカっ腹立てるのも許されてるんだな、と。神様は、人間に冷血で無感覚な存在になってほしくて、人間を創造したんじゃないものな、と。
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私は神様に、私が初めから暴力を受けないようにしてほしかったのだ。でも、兄が僻んだり妬んだりしたのは兄自身の罪で、兄が克服すべき課題だったんだな、と今にして分かる。私は兄に「お前がいるからいけない!」と当たられた言葉を変に真に受けて、私の属性などを自責するようになっていたし、男尊女卑の家族を呪っていた。けど、何も問題が起きないように創造してほしかった、と言うのは、ある意味私の傲慢なんだな。
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<新改訳第三版 イザヤ書45章11 〜12節>
イスラエルの聖なる方、これを形造った方、主はこう仰せられる。「これから起こる事を、わたしに尋ねようとするのか。わたしの子らについて、わたしの手で造ったものについて、わたしに命じるのか。このわたしが地を造り、その上に人間を創造した。わたしはわたしの手で天を引き延べ、その万象に命じた。
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私は自分が元々は支配欲の強い人間なんだな、と今にして判る。
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