私もかつてそうだったが、多くの方にはどうも新約聖書の手紙などを“掟”として読み過ぎる傾向があるように思う。確かにパウロの圧が強いのはそうである。だがパウロの手紙は、各教会の皆さんへの感謝と祈りに溢れている。勿論、本題的な2章以降に注意が向きがちなのはある程度致し方ないが、1章の挨拶や掉尾の章などは読んでいて、心をたいそう燃え立たせられるものがあることにもっと目が向けられても良いのでは?とここ三,四年の私は思う。
* * *
<新改訳第三版 テサロニケ人への手紙第二 1章3 節>
兄弟たち。あなたがたのことについて、私たちはいつも神に感謝しなければなりません。そうするのが当然なのです。なぜならあなたがたの信仰が目に見えて成長し、あなたがたすべての間で、ひとりひとりに相互の愛が増し加わっているからです。
↓ ↓ ↓
私達が感謝できることは、食べるものが与えられていることとか、日々健康に暮らせることとかだけではない。たとえ窮乏に陥っても、主が必要を満たしてくださり逃れ道を備えてくださると信じられることや、たとえ困った方の傍にいられなくても、「大変ねぇ……」と噂話するに留めず、執り成しの祈りをささげ、自らの生活を生きつつもできることを主に尋ね求めていけることも、感謝に値するだろう。
↓ ↓ ↓
<新改訳第三版 コリント人への手紙第二1章11 節>
あなたがたも祈りによって、私たちを助けて協力してくださるでしょう。それは、多くの人々の祈りにより私たちに与えられた恵みについて、多くの人々が感謝をささげるようになるためです。
* * *
私達が、自分の凄さゆえに人をサポートできたとしても、「あぁ立派ですね(私にはそんな力やお金は無いわ)」という反応をされるだけだろう。だが、誰かの祈りによって与えられた恵みなら、祈って支えてくださった方に感謝したいし、神様を讃えざるを得ない。人の力や自分を誇るのではない感謝は、周囲の人々にも感謝の念をもたらすだろう。
↓ ↓ ↓
<新改訳第三版 コロサイ人への手紙1章6節>
この福音は、あなたがたが神の恵みを聞き、それをほんとうに理解したとき以来、あなたがたの間でも見られるとおりの勢いをもって、世界中で、実を結び広がり続けています。福音はそのようにしてあなたがたに届いたのです。
* * *
私の祈りは貧弱である。そして、そう示されていることはある意味幸いである。聖書を開くたびに、(こんな恵み深い感謝の言葉があるなんて……!)と今更ながらに新しい発見がある日々だから、なかなか聖書協会共同訳を買うに至らない(昨年10月22日に、聖書協会共同訳の続編付きを買おう!なんて祈ってたのにね)。まぁそこまで御言葉に潤されてる私は、本当に幸いなんだろうな。
※コメント投稿者のブログIDはブログ作成者のみに通知されます