水の門

体内をながれるもの。ことば。音楽。飲みもの。スピリット。

#通読+α 2021年12月分まとめ

2021年12月31日 09時57分32秒 | 黙想・聖書通読・礼拝聖句
◆12月11日
作業所には(私を含めてだろうが)仕事・生活をする上で実際どう手順を組むか分かっていない人が多い(まぁそういう人達だから指導されに来てるとも言えるが)。メンバーには昂奮して喋り続け、作業の手が疎かになってしまう人も数人(私もそういう時もある)。一年ほど前に父君を亡くした某メンバーが、最近あまり眠れずハイテンションになって方々へ出かけてるらしい。その人の支離滅裂なお喋りが過度で、周りは皆んな憔悴してる。その人のエロ妄想の標的にされてる感もあり、私も内面を掻き乱され作業中に軽めの鎮静剤服用する場面も生じてる。以前は単なる憎悪の対象でしかなかったその人だが、ぶっ飛んだお喋りに混じる具体的な事柄[お兄様や近所の人に命じられて為したことが見当違いで相手にキレられたが、本人としては(従ったのに…)みたいな齟齬で終わってしまってること]が見えてくるにつけ、マルコによる福音書5章のゲラサの人の話が浮かんだり、箴言29章1節の「懲らしめられることが多いと人は頑固になる。彼は突然打ち砕かれ、もう癒すことはできない」(新共同訳)が浮かんだりする。箴言29:1は他の訳だと《本人が頑固だからいけない》的なニュアンス。新共同訳も「もう癒すことはできない」と言い切りが相当キツいが、マルコ福音書5:15みたいな奇跡もイエスなら起こせるのだろうなぁ、と。私のできることは当人の激情に呑まれぬよう距離を取りつつ、次の御言葉がその人と共にありますように、と祈るぐらい。
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<新改訳第三版 詩篇85:4-7>
われらの救いの神よ。どうか、私たちを生き返らせ、私たちに対する御怒りをやめてください。あなたは、いつまでも、私たちに対して怒っておられるのですか。代々に至るまで、あなたの御怒りを引き延ばされるのですか。あなたは、私たちを再び生かされないのですか。あなたの民があなたによって喜ぶために。主よ。私たちに、あなたの恵みを示し、あなたの救いを私たちに与えてください。
(※12月12日礼拝の交読詩篇より)

◆12月22日
昨日は通所日。クリスマス礼拝で貰った菓子袋の写真を色んな方に見せ自慢してた。昼休みに、神様を信じてるUさんにも見せた。ミニカード裏面の聖句を見たUさんは少し考え「相談したいことがある」と。Uさんはグループホームと同じ団地に住む知的と思われる若い男性に付き纏われて困ってるのだとか。どうも、いかがわしいことを言いながら寄ってくるらしい。私の見せた写真の「愛を身に着けなさい。愛は、すべてを完成させるきずなです」(コロサイの信徒への手紙3:14)に、そういう手合いも受け入れなくてはいけないのか、と葛藤したよう。私は「毅然としてるのも愛ですよ」と答え、「人に罪をおかさせないのも愛です」と言い、箴言27:6「愛する人の与える傷は忠実さのしるし 憎む人は数多くの接吻を与える」(新共同訳)を見せた。そして「Uさんが守られるよう私も祈りますね」と言った。「お願いします」とUさん。実は午前の作業の途中からFさんのトラウマトークが炸裂していて、昼休みの始まる時も仲の良いAさんに被害妄想をぶつけていたりしたのだが、昼休み終わり頃の私とUさんの会話が何となく場を律した感じで、職員に対して管を巻いてたFさんも急に大人しくなり、午後は皆んな黙々と作業に励んだ。

◆12月31日
<新共同訳 マタイによる福音書7:1-2>
「人を裁くな。あなたがたも裁かれないようにするためである。あなたがたは、自分の裁く裁きで裁かれ、自分の量る秤で量り与えられる。
(※この聖句には長いこと勘違いがあった。威圧感ある処世術のように感じていたのだ。)
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<新共同訳 ヨハネによる福音書5:2-9>
エルサレムには羊の門の傍らに、ヘブライ語で「ベトザタ」と呼ばれる池があり、そこには五つの回廊があった。この回廊には、病気の人、目の見えない人、足の不自由な人、体の麻痺した人などが、大勢横たわっていた。彼らは、水が動くのを待っていた。それは、主の使いがときどき池に降りて来て、水が動くことがあり、水が動いたとき、真っ先に水に入る者は、どんな病気にかかっていても、いやされたからである。さて、そこに三十八年も病気で苦しんでいる人がいた。イエスは、その人が横たわっているのを見、また、もう長い間病気であるのを知って、「良くなりたいか」と言われた。病人は答えた。「主よ、水が動くとき、わたしを池の中に入れてくれる人がいないのです。わたしが行くうちに、ほかの人が先に降りて行くのです。」イエスは言われた。「起き上がりなさい。床を担いで歩きなさい。」 すると、その人はすぐに良くなって、床を担いで歩きだした。その日は安息日であった。
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私は小学校3年生頃まで兄と同室だった。物心ついた頃には兄に暴力を振るわれる日常だったから、部屋でもビクビクしてた。兄のテリトリーは青の絨毯、私のテリトリーはオレンジの絨毯。兄は私が青の絨毯に少しでも触れると激怒。机まで行くにはベッドが塞がっていて、それがちょうどオレンジの絨毯幅いっぱい。初め私は青の絨毯の縁を歩いて自分の机に行っていたが兄が烈火のごとく怒ったので、ベッドの上をスタスタ上って行くように。そしたら母が「スリッパで汚い!」と怒った。(じゃあレイアウト変えてよ)と言う知恵もまだなく、私は膝をついてベッドを渡るようになった。そんな調子だったので、兄が部屋にいる間は私は存在感を消すことに必死。自然、ベッドの中で身を横たえて過ごすことが多くなった。
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ヨハネによる福音書5章の話は、私は長らく理解できていなかったなと。母教会でもイエスの「床を担いで歩きなさい」は、(言い訳するな!)的なニュアンスで語られていて、(優しいイエス様が?)と私には疑問で仕方なかった。でもイエスは38年伏せっていた人を裁かなかったのではないだろうか?
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先日作業所で、箱の折りかセットかどちらかの作業を選ぶよう言われた。セットはサイドの仕切りを入れるのに力が要り、指がむくんでき易い(リンパ浮腫を防ぐため避けたい作業)。折りは、しっかり折って尚且つ皺の寄らないようにとのこと。私は握力弱いが「工夫してやってみます」と折りに挑戦。一生懸命に折りの作業をしながら、私はナルドの香油をイエスの頭に注ぎかけた女性(マルコ福音書14章)や、財産の半分を貧しい人々に施し誰かから騙し取ってた分は四倍にして返すと言った徴税人ザアカイ(ルカ福音書19章)を侮らなかったイエスのことを考えた。主は私の自発的な行いを少しも裁かないのだなと。

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