水の門

体内をながれるもの。ことば。音楽。飲みもの。スピリット。

一首鑑賞(57):駒田晶子「だいじょうぶ大丈夫と聞き言いあいて」

2018年06月04日 15時36分55秒 | 一首鑑賞
だいじょうぶ大丈夫と聞き言いあいて問いたきことは腹に沈めつ
駒田晶子『光のひび』


 一読して心情が伝わってくる。お互いを気遣って「大丈夫?」と聞き合ったものの、それ以上深くは立ち入れず言葉を飲み込んだ、という一首である。けれど、この歌の背景を知るとその重みにしばし絶句してしまう。駒田は福島市出身。仙台で東日本大震災に遭遇した。掲出歌は、2013年晩秋に福島の実家の除染作業が完了した折に詠まれたものらしく、おそらくは実家のご両親との間で交わされた、被災の苦境を慮っての言葉だったのだろう。しかしこの歌は、ママ友の間や、あるいは子供達の間における日常的なやり取りにも起こり得る微妙な距離感を巧く捉えていて、読み手がそれぞれ自分に引き寄せても愛誦できる懐の深さを持っている。

  傷あれど痛みを言はぬ人たちにガーゼのやうな言葉はなくて/斉藤梢歌集

 斉藤もまた仙台にいて被災し、上の歌を詠んだ。各人が抱えている痛みをそっと覆う柔らかいガーゼのような言葉を、私達はどれだけ知っているだろうか。

  想像でしか重なることのできぬものそれを苦しみとよぶことの疚(やま)しさ/森井マスミ『まるで世界の終りみたいな』

 森井は愛知に在住し大学の教員を務めている。様々な時事に鋭い視線を投げかけており、東日本大震災後に詠まれた上記の歌にも自分の立場を半ば断罪しているかの手厳しい詠み口が窺え、読者の心を突き刺してくる。「魂の苦しみを知るのは自分の心。その喜びにも他人はあずからない」という箴言14章10節の言葉も去来する。
 苦しみの渦中にいる人に思いを馳せ涙する——そんな感傷を疚しい、と森井は自戒を込めて言った。私達は崩折れるしかないのだろうか。先の箴言と一見相反するかのような聖句がある。
 「神は、あらゆる苦難に際してわたしたちを慰めてくださるので、わたしたちも神からいただくこの慰めによって、あらゆる苦難の中にある人々を慰めることができます。キリストの苦しみが満ちあふれてわたしたちにも及んでいるのと同じように、わたしたちの受ける慰めもキリストによって満ちあふれているからです。」このコリントの信徒への手紙 二 1章4〜5節も、新共同訳だとやや情に傾いているきらいがある。4節は新改訳(第三版)だと「神は、どのような苦しみのときにも、私たちを慰めてくださいます。こうして、私たちも、自分自身が神から受ける慰めによって、どのような苦しみの中にいる人をも慰めることができるのです」と、もう少し焦点が明瞭である。私達が慰めるのではない、私自身が神から受けている慰めに、人は慰められていくのだ。これは人間の為せる業ではない。私の上に成就した神からの慰めを、人が感受して慰められていくのだ。希望はそこにしかない。

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