水の門

体内をながれるもの。ことば。音楽。飲みもの。スピリット。

#通読+α 2021年10月分まとめ

2021年10月31日 08時24分29秒 | 黙想・聖書通読・礼拝聖句
◆10月5日
最近、市内で流れる正午をお知らせする音楽が「恋は水色」→(トトロの)「さんぽ」に換わった。それで私は一緒に作業していた人に「昔ネコバスを詠んだ歌を作ったんだけど全く理解されなかった。聖書の言葉と取り合わせたのが悪かったのかなぁ。まぁ未熟だったってのもあるけど」と話した。「今ならできるんじゃないですか」と相手。「文章はじわじわ予兆が見えてきて書けるけど、短歌は推敲もある時フッとできるんだよね」と私。
午後は別の方にトトロの好きなシーンを話した。メイの蒔いた木の実のあるところを夜中にトトロ達が合掌しつつぐるぐる回ると、どんどん発芽し伸びてく場面。それを見たメイとサツキがトトロの後ろについて歩き回って、(ゔーーん)と一生懸命両手を合わせパッと上に挙げると生長していく木に二人が喜んでるのを見ると、私ってメイだなと思う、トトロの念力で木が発育してるだけで、自分は一緒になって手を合わせて(ゔーーん)とやって喜んでるだけ、と。相手に後で、トラクトNo.7の扉絵を見せた。
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※トラクトNo.7の扉絵聖句:
<コリントの信徒への手紙⑴3章6〜7節>
わたしは植え、アポロは水を注いだ。しかし、成長させてくださったのは神です。ですから、大切なのは、植える者でも水を注ぐ者でもなく、成長させてくださる神です。

◆10月6日
所属教会の年配信徒宛に封書投函。眼鏡かけて野焼き跡をよく観察(専用の煙突みたいなのが刺さってました)。いつの間に飯島真理さんのSerendipityを口ずさんでました。帰りかけたら光芒が見え、家への路地を通過し逆の散歩コースへ。電線の写りが少ない所で撮影。
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どっちの道を選んでもそれぞれに恵みがあるんだな、神様はそんな狭量な方ではないんだな、とふと思いました。日々やらなきゃいけないこと・したいことがあり過ぎて、できない自分を責めそうになるけど、神様に(一緒にいて下さい)とお願いして、少しずつ進めていけばいいんだなと思いました。
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<新改訳第三版 詩篇90:15-17>
あなたが私たちを悩まされた日々と、私たちがわざわいに会った年々に応じて、私たちを楽しませてください。あなたのみわざをあなたのしもべらに、あなたの威光を彼らの子らに見せてください。私たちの神、主のご慈愛が私たちの上にありますように。そして、私たちの手のわざを確かなものにしてください。どうか、私たちの手のわざを確かなものにし てください。

◆10月11日
ゴミ出し後に団地の辺りから撮影。久々に茅ヶ岳が撮れました。
昨日も実は イヤな短歌会の前に団地を一周したのですが、その時団地の方から男の子が走り出てきて「ママ怒ってたよ、◯◯ちゃん(男児名)怒られちゃったよ」と言って走り去りました。
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<新共同訳 コヘレトの言葉10章20節>
親友に向かってすら王を呪うな。寝室ですら金持ちを呪うな。空の鳥がその声を伝え 翼あるものがその言葉を告げる。
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まぁ私は金持ちを呪ったりはしてませんが、(土)にブログで家族の告発をしたのも、何某かの伝播はあったかも、とは思います。まぁ単なるシンクロニシティかもしれませんが、声を上げると波及するというのは、今までそれなりに見てきました。「空の鳥がその声を伝え」なんて、ある意味まさにTwitter(のシンボルマーク)ではありませんか……!私は、先の◯◯ちゃんとそのご家族と共に主がいて下さいますように、と祈りました。

◆10月17日
朝食後に横になり、眠っていないのだが、目を閉じてる隙に圧迫的な視覚心像が。礼拝行けばまた重荷を負わされるという妄想もあり、今日は礼拝休む(こういう呟きも作業所職員が見ていて、私が体調崩すといつも教会を責めるのだが、人目気にして裡に押し込んでると、本当に身体が動かなくなるので吐露)
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<新共同訳マルコ福音書12:30-31>
心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くし、力を尽くして、あなたの神である主を愛しなさい。』第二の掟は、これである。『隣人を自分のように愛しなさい。』この二つにまさる掟はほかにない。」
(*律法学者の「あらゆる掟のうちで、どれが第一でしょうか」への主の答え)
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最初が「心を尽くし」な事に慰められる。「力を尽くし」が筆頭だったら、死ぬしかない感じ。「力を尽くし」ってヴィジュアル系よね(見た目第一、結果第一という意味で)。母教会は本当に力尽くしてる教会だった(だから私は落ちこぼれてた)。でも母教会に限らず世の中もヴィジュアル系かと(数字信仰とか)

◆10月30日
<新改訳第三版 ヘブル人への手紙 11:13-16>
これらの人々はみな、信仰の人々として死にました。約束のものを手に入れることはありませんでしたが、はるかにそれを見て喜び迎え、地上では旅人であり寄留者であることを告白していたのです。彼らはこのように言うことによって、自分の故郷を求めていることを示しています。もし、出て来た故郷のことを思っていたのであれば、帰る機会はあったでしょう。しかし、事実、彼らは、さらにすぐれた故郷、すなわち天の故郷にあこがれていたのです。それゆえ、神は彼らの神と呼ばれることを恥となさいませんでした。事実、神は彼らのために都を用意しておられました。
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私のブログの一首鑑賞の一つ【「天国へ行くのに肩書きはいりません」牧師の声は熱帯びてきぬ】へのアクセスが地味に続いている。私としては「よく書けた」実感もそんなに無いので意外と言えば意外。アクセスが続くことで逆に、ああ皆そんなに天国行きたいのかぁ、と感じさせられてる。ヘブル11章は一昨日の通読箇所。私は以前から天国願望って薄かった(それで母教会の信徒に呆れられたりしてた)。某異端のパンフみたいに皆がニカ〜ッとしてる場所なんて気味悪いというのが正直なところだった。延々明るい交わりをしなければいけないなんて、疲れる〜という感じだったのだ。でも一昨日読んで、ふとすんなり受け取れている自分に気づいた。ここ一年の試練を通じて、根本的な人間嫌いが払拭されたとまではいかないが、祈って歩み寄れば障壁となっていたものが崩れること、トラウマが穿り返される事柄が起きて精神的危機に陥ってもいつも主が共にいて下さり、揉まれた労苦は報われることを身をもって経験したからだろう。ルカによる福音書17章21節に「実に、神の国はあなたがたの間にあるのだ」 (新共同訳)とあるけど、こういうリアルな御国だったら行きたいと思える。別に天国って「喧嘩一切禁止!」とか雁字搦めじゃなくて、和解があるってことなんでは。

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