若き日は病の器とあきらめぬ老ゆればさみし脆(もろ)き器か
空穂は生来病弱だったそうで、親からもあまり長生きできないだろうと言われつつ育ったと晩年の歌集のあとがきにある。空穂の痼疾は気管支炎だった。その脆弱ゆえに大戦時の徴兵にも通らず、当時の本人としては忸怩たる思いがあったらしい。しかし、空穂は89歳まで長命を全うした。一病息災には違いないが、歌集を繙いていくとそう簡単に結論づけるのが躊躇われる。老いてからは大病とは縁遠かったものの、耳や足腰の衰え、貧血などによる不自由な生活を余儀なくされていたためで、まさに方丈に起居するといった感じだったようだ。「脆き器」の語の斡旋が、その暮らしぶりを非常に的確に表していると思う。
だが、空穂がその不如意な身の上に甘んじて無為に過ごしていたと考えるのは浅はかである。空穂は短歌を自作する傍ら、古典和歌の評釈の大著を書き上げている。戦争末期に詠まれた歌を多く収める歌集『明闇』には次のような歌がある。
いささかの文(ぶん)まとめむと老いにける心の散らずひたすらなるも
誰れ待つといふにあらぬを思ふこと書くと疲れて夜を眠れず
書きさしの文(ぶん)の嵩みの我を見て促す如しかたへに置けば
いにしへのこの一歌に立ち来たる面影いふとわれ筆を執る
こうした空穂の姿を追っていると、使徒パウロの「知ってのとおり、この前わたしは、体が弱くなったことがきっかけで、あなたがたに福音を告げ知らせました」(ガラテヤの信徒への手紙4章13節)という言葉が私の脳裏をかすめる。
掲出歌を収めた『木草と共に』は、『明闇』より時代が下り、空穂最晩年の少し手前に発行された。
思ふこと書くがまにまに思はざること湧き出でて書きつづけしむ 『木草と共に』
疲れぬとペンさし措(お)きつ疲るれば思ひの涸れて書かんことなき
物書くは身のすることぞ老い痴れてする業(わざ)ならずとわが身の諫む
比べれば老いの影は否めないが、それでも執筆意欲は健在であった。掲出歌を改めて見ると「器」の語に目がいく。実は、空穂は植村正久の教えを受けて柳町教会で受洗しており、キリスト教にまつわる歌も歌集に点在している。とすれば掲出歌の「器」も、聖書が下敷きにあるものと見るのが妥当であろう。
ところで、わたしたちは、このような宝を土の器に納めています。この並外れて偉大な力が神のものであって、わたしたちから出たものでないことが明らかになるために。(コリントの信徒への手紙 二 4章7節)
境涯詠の大家として知られる空穂が、ただ作歌に留まらず、脆き器を押して文筆に執心し著そうとしたものは何であったのか——その著作を調べ上げていくのはいささか私の手に余る。とは言え「鑑賞はおのれを語るものにあれば陶酔も無視も好むがままに」(『丘陵地』所収)という強い断定の歌を物した空穂が、古典和歌を題材にどんな想像の翼を広げていったのか、一信徒として大変興味をそそられる。
窪田空穂『木草と共に』
空穂は生来病弱だったそうで、親からもあまり長生きできないだろうと言われつつ育ったと晩年の歌集のあとがきにある。空穂の痼疾は気管支炎だった。その脆弱ゆえに大戦時の徴兵にも通らず、当時の本人としては忸怩たる思いがあったらしい。しかし、空穂は89歳まで長命を全うした。一病息災には違いないが、歌集を繙いていくとそう簡単に結論づけるのが躊躇われる。老いてからは大病とは縁遠かったものの、耳や足腰の衰え、貧血などによる不自由な生活を余儀なくされていたためで、まさに方丈に起居するといった感じだったようだ。「脆き器」の語の斡旋が、その暮らしぶりを非常に的確に表していると思う。
だが、空穂がその不如意な身の上に甘んじて無為に過ごしていたと考えるのは浅はかである。空穂は短歌を自作する傍ら、古典和歌の評釈の大著を書き上げている。戦争末期に詠まれた歌を多く収める歌集『明闇』には次のような歌がある。
いささかの文(ぶん)まとめむと老いにける心の散らずひたすらなるも
誰れ待つといふにあらぬを思ふこと書くと疲れて夜を眠れず
書きさしの文(ぶん)の嵩みの我を見て促す如しかたへに置けば
いにしへのこの一歌に立ち来たる面影いふとわれ筆を執る
こうした空穂の姿を追っていると、使徒パウロの「知ってのとおり、この前わたしは、体が弱くなったことがきっかけで、あなたがたに福音を告げ知らせました」(ガラテヤの信徒への手紙4章13節)という言葉が私の脳裏をかすめる。
掲出歌を収めた『木草と共に』は、『明闇』より時代が下り、空穂最晩年の少し手前に発行された。
思ふこと書くがまにまに思はざること湧き出でて書きつづけしむ 『木草と共に』
疲れぬとペンさし措(お)きつ疲るれば思ひの涸れて書かんことなき
物書くは身のすることぞ老い痴れてする業(わざ)ならずとわが身の諫む
比べれば老いの影は否めないが、それでも執筆意欲は健在であった。掲出歌を改めて見ると「器」の語に目がいく。実は、空穂は植村正久の教えを受けて柳町教会で受洗しており、キリスト教にまつわる歌も歌集に点在している。とすれば掲出歌の「器」も、聖書が下敷きにあるものと見るのが妥当であろう。
ところで、わたしたちは、このような宝を土の器に納めています。この並外れて偉大な力が神のものであって、わたしたちから出たものでないことが明らかになるために。(コリントの信徒への手紙 二 4章7節)
境涯詠の大家として知られる空穂が、ただ作歌に留まらず、脆き器を押して文筆に執心し著そうとしたものは何であったのか——その著作を調べ上げていくのはいささか私の手に余る。とは言え「鑑賞はおのれを語るものにあれば陶酔も無視も好むがままに」(『丘陵地』所収)という強い断定の歌を物した空穂が、古典和歌を題材にどんな想像の翼を広げていったのか、一信徒として大変興味をそそられる。
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