水の門

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聖書黙想 2023年12月22日

2023年12月22日 17時22分15秒 | 黙想・聖書通読・礼拝聖句
現牧師夫人がかねてから力説していることで、どうも私には腑に落ちない点がある。曰く「子どもが教会に通うにはまず親の心を掴まないと」と。確かにこの地域では物理的に教会に来るためには親による送迎が必要な距離に住んでる子ども達が多いのは事実である。でもそれって、何か信仰的な発想には思えない。子ども自身が教会に魅力を感じてたら、親を巻き込んで来るんじゃないのかな?と私は思うけど。(私の考え方は甘いのかな?)
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<新共同訳 ルカによる福音書 1章39〜45節>
そのころ、マリアは出かけて、急いで山里に向かい、ユダの町に行った。そして、ザカリアの家に入ってエリサベトに挨拶した。マリアの挨拶をエリサベトが聞いたとき、その胎内の子がおどった。エリサベトは聖霊に満たされて、声高らかに言った。「あなたは女の中で祝福された方です。胎内のお子さまも祝福されています。わたしの主のお母さまがわたしのところに来てくださるとは、どういうわけでしょう。あなたの挨拶のお声をわたしが耳にしたとき、胎内の子は喜んでおどりました。 主がおっしゃったことは必ず実現すると信じた方は、なんと幸いでしょう。」
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以前、分級が賛美体操みたいなこと(賛美ダンス?)をやってた時は結構盛り上がってたよね、教会学校も。
(作業所の職員で男の子のお母さんは傍から見てると、子どもの野球のためにそこまでする?という感じだったし。)
逆に、親に言われたからということで教会に通う子どもが、その後自発的に周りの子達を教会に誘うか、と言ったら違う気がするけどなぁ。どうなんだろう……?

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