毎日がちょっとぼうけん

日本に戻り、晴耕雨読の日々を綴ります

「基地に賛成の人ってどんな人?」2015年7月6日(月)No.1395

2015-07-06 16:53:22 | がんばろう沖縄

長年シアトルに住んでいるチエコさんから電話がありました。

アメリカでは沖縄の基地問題について、誰もな~んも知らないそうです。

5月末から6月初めにかけての翁長知事一行の訪米について多くのメディアは、

「成果がなかったから失敗だった」と断じましたが、

そもそも何も知らない人たちに基地問題の存在と本質をアピールしたこと自体、

大いなる成果だったと私は思います。

チエコさん自身、20代でアメリカに渡ってから早何十年、ずっとシアトルで暮らし、

沖縄問題について自分もほぼ何も知らないと語りました。

アメリカ在住のチエコさんのみならず、

実は、私も含め多くの本土の人間は沖縄の歴史と基地問題について、

知らないことだらけなのを痛感します。

そんな私達向けの基地問題啓蒙雑誌「PICNIC」というのがあります。

その中に下の漫画(作・Cliff Miyagiが掲載されていました

「『基地賛成派』ってどんな人たちね~?」

短いのによく分かる漫画です。

 

 

今も、辺野古基地建設工事のせいで大浦湾で漁をすることができなくなった

辺野古の漁師さんたちの中には、海の警備隊員として雇われて、

フロートの内側で一日ボーッと海を見て暮らす人もいるそうです。

その漁師さんも簡単に基地反対とは言えないでしょう。

分断と差別、それが沖縄の人々を引き裂いてきた

いつものパターンのやり口なのです。

表層だけを見ていては、ものごとの本質が分からないですね……。

 

(付録):今日の毎日新聞ニュースメールによれば、 

『安倍内閣の支持率は5月の前回調査から3ポイント減の42%、不支持率は同7ポイント増の43%で、2012年12月の第2次安倍内閣発足後初めて、支持と不支持が逆転した。政府・与党が衆院通過を急ぐ安全保障関連法案については、国民への説明が「不十分だ」との回答が81%に上った。』

ということで、これがアベの終わりの始まりであることを衷心より願うものであります。


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「海と風の宿の辺野古ブルーたち」2015年7月4日(土)No.1393

2015-07-04 19:56:08 | がんばろう沖縄

海と風の宿はやんばるのゲストハウス(安宿)で、誰でも泊まれるのですが、

私がスタッフとして滞在した5月24日から6月末まではちょうど梅雨の時期でもあり、

観光だけのお客は少なかったです。

その代わりと言ってはなんですが、

場所が辺野古新基地建設工事の現場に近いので

辺野古のキャンプシュワブゲート前座り込みや、

カヌーに乗っての抗議闘争に全国から駆け付けた人々が

次々に宿泊していました。

ネットで見ると、そのような人たちのことを「サヨク」とか「反日」とかのレッテルを貼る、

あまりにも思考力のない人が日本に住んでいることに驚くのですが、

このブログでは私が見た、

その「サヨク」「反日」と呼ばれる人たちの真の姿にちょっと迫ってみたいと思います。


まずは辺野古ブルー(カヌー隊)メンバーの人たちです。

下は16泊の滞在後、広島の家に帰る直前の七海さん。

19歳のお嬢さんです。

毎日、午前と午後に海に漕ぎだしフロートを越えて海保に拘束され、

浜近くで解放されるという全然楽しくないことの繰り返しなのに、

彼女は早朝5時40分に長期滞在の先輩ミヤサカさんの車に便乗して出発します。

一度も休んだことはありません。

よくグナアを散歩に連れて行ってくれもしました。

瀬嵩の浜のゴミ拾いと分別も一緒にしてくれました。

 

ある日の夕食のことです。

メインディッシュに鶏肉を焼いて出すと、

七海さんはそれをお皿に一番最後まで残して、他のおかずを食べていました。

「あれ?鶏肉は苦手?」と聞くと、

「いいえ!美味しいのを最後まで取ってあるんです。」

と言うので(ああ、なんてカワイイ)と思わずにはいられませんでした。

彼女は家で(もちろん小さい頃のことでしょう)、

せっかく最後に食べようと残して置いた焼き塩鮭の皮を、

お父さんがぱくっと食べてしまったので拗ねまくり、

「もうご飯なんかいらんわ!」とむくれたことがあると語っていました。

 

どうして辺野古闘争に来たのか七海さんに聞くと、

初めは、お兄さんが「行って来い」と言ったからと言います。

お兄さんは来たくても農家なのでなかなか家を空けることができません。

七海さんはちょうど今、フリーターなので時間はたっぷりあるから…と。

今回は2回目の辺野古です。

前回、初めての時はただ、お兄さんに勧められたし、自分も

(沖縄が好きだから~)というお気楽な気持ちだったそうですが、

座り込みをしている人たちを見て、(私も一緒に何かしたい。できないだろうか)

という思いが湧いてきたそうです。

「テント村の女王」島袋文子さんを筆頭に、

座り込みをしている人たちの多くは60代、70代以上のオジイ、オバアです。

その人たちは到底「サヨク」とか「反日」で括られるような人間ではありません。

ただただ、沖縄の戦後70年にも及ぶ基地の犠牲に憤怒し、

この状態を次の世代に引き継がせまいという一心で座り込み、

道路に伏して抵抗しています。

本土の馬鹿野郎どもが事実を知ろうともせず、嘘八百の流言を言おうとも、

現場に来れば、何が真実なのかが分かります。

 

辺野古ブルーのメンバーが海保のゴムボートから降ろされ、

瀬嵩の浜に戻ってきたとき、それを迎える島ぐるみ会議の中には、

メンバーに手を合わせる年配の人もいました。

私は「サヨクはもういい、地元の人たちの本心を聞きたい」

とネットに書き込んでいた者どもの愚かさを思わずにはいられません。

反基地闘争はオール沖縄の闘いなのです。

地元では、こうしたネットの排他的、一面的、差別的思考の放つ腐敗臭を、

一度も感じることはありませんでした。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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「海と風の宿の風雅なお客」2015年7月3日(金)No.1392

2015-07-03 20:30:02 | がんばろう沖縄

 

 月桃の花咲く海と風の宿には、

一般のホテルとは一味も二味も違うお客が宿泊します。

「金払ってんねん、わしゃ客やねんぞ」といった態度はどのお客さんにも見られません。

それはスタッフとして一番ありがたいことでした。

さらに一歩進んだ「参加型お客」とでも言えそうな人々が、

次々と押し寄せてこの宿を盛り立ててくれるのです。

 

その一人が下の中島さんです。

彼は2月にもこの宿に泊まったのですが、

そのとき、台所の包丁の切れ味が鈍いことがいたく気になったそうで、

この6月に再度宿泊した際には、何とカバンから砥石を取り出し、

台所に行ってシュッシュッと研ぎだすではありませんか。

お蔭様で私は夕食作りがたいへん楽になりました。

その中島さんが、私が宿を離れる何日か前に、

1mほどもある立派な太刀魚を持ってきてくれました。

海と風の宿を発った後、仲間とアパートをシェアして暮らしつつ、

辺野古の座り込みを続ける中島さんは、

釣りを趣味とする風雅な人でもあったのです。

太刀魚など触ったこともない私のために、彼はトントンと手際よく魚をさばき、

切り身にしてくれました。

 この切り身は冷凍され、私が発つ前夜の最後の晩餐に、

「太刀魚のムニエル」としてディナーのメインディッシュになりました。

焼く途中、フライパンの中でプクプクと膨らんだその太刀魚は、

決してお世辞ではなく、私がこれまで食した太刀魚の中で最も美味しかったです。

基本的には素泊まりの宿ですが、

辺野古に駆け付けた長期滞在客のために

夕食を300円で提供していました。

前のスタッフ、ナオコさん&エリカさん親子や、ミドさん&ジョニーご夫婦が

されていたことを私も踏襲したのです。

片づけは全部お客さんがやってくれました。

食事をともにしながらお喋りをするお客さんたちは、あっという間に

打ち解けて交流の輪が広がりました。

ドミトリー(相部屋)2000円、個室3500円で、

晩御飯が300円とは、なかなかいい宿ではありませんか(笑)。

もちろん自炊しても構いません。

下の写真はほぼ食べつくした後のゆんたくでくつろぐお客さんたち。

 

中島さんの身に最近とんでもないことがありましたが、

彼のことですから、きっと何事もなかったかのように

今日も座り込みの後、夜釣りを楽しんでいることでしょう。

私は今度はお客としてこの宿を訪れたいと思っています。

そのときには、辺野古新基地建設が中止されていることを心から願います。

〈海と風の宿〉 沖縄県名護市瀬嵩182(瀬嵩のバス停から徒歩5分)

          予約:090-7162-1953(9時から20時まで)

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「大浦湾瀬嵩の浜のゴミ拾い」2015年6月21日(日)No.1386

2015-06-22 00:03:19 | がんばろう沖縄

月曜日から土曜日まで毎日早朝5時40分に宿を出発する辺野古座り込み隊のミヤさんと、

辺野古ブルーの若き戦士七海さんは今日、日曜なので休息日でした。

七海さんともう一人、東京からの座り込み隊ヤマさんと私の3人は、

以前より気になっていた瀬嵩の浜のゴミ拾いを決行することにしました。

朝8時過ぎ、グナアの散歩も兼ねて出発。

波打ち際から離れた方には、ペットボトルや空き缶が多かったです。

 

グナアはいつもの散歩と違い、??の風情です。

 

グナアが波打ち際で見せる断固たる拒絶。

水が嫌なんですね。

 

結局、こうなりました。 

 

随所にヤドカリが歩いています。

時には遠く離れたアスファルト道路の傍にも。

 

宿に戻って分別開始。砂だらけなので洗うのがたいへんでした。

 

ほんの少しのエリアなのにこんなにありました。

打ち上げられたものもありますが(1つ中国語で蒙乳のヨーグルトと書かれたものを発見し、驚きました)、

浜辺で人々が捨てたものも多いのです。

きれいな海にするには、ゴミ捨てもダメです。

 

ふい~、くたびれた~~。

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「海と風の宿の庭」2015 年6月20日(土)No.1385

2015-06-21 00:04:00 | がんばろう沖縄

周りを椰子の木に囲まれた平屋建てのゲストハウス、

築20年の歴史があります。

オーナーは辺野古反基地闘争に古くからかかわってきた人だそうです。

本人から聞いたのではなく、古くから海風を知っているお客さんが教えてくれました。

こんな手作り看板が入口に立っています。

 

入っていくとまずハンモックや野外テーブルと椅子があります。

数週間前に私が洗濯ものとともに落下したのはこのテーブルからです。

暑さを避けて日陰でひたすら寝るグナア。

手前の黒いタオルケットは彼のペットです。

 

私がベルトなし草刈り機で刈った雑草も、再び元気に成長しつつあります。

手前はテラス。

野菜が雑草に埋もれていたのを救出し、支柱を建てました。

ジャーン!へちま。

ジャーン!ゴーヤ。

でも、実は、ヘチマもゴーヤもたった一個ずつしかなっていません。

葉っぱはカタツムリに食べられ放題。

 

先週から庭の隅にこんなきれいな花が咲き出しました。

 

椰子の葉が風に揺れてサラサラなると、時には雨が降ってきたように聞こえ、

慌てて洗濯物を取り込みに外に飛び出すことがあります。

赤いロープは、グナアの運動用。

先日帰ったチバさんは、自分の洗濯ものをグナアのロープに掛けていました。

 

音を立てて落ちる椰子の葉。

毎日何本も落ちてきます。

 

 

テラスの隅にもシーサーが。

この木製テラス、晴れの日は素足で歩けないほど熱くなります。

ここに布団を並べて干します。

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「百戦錬磨のチバさん帰る」2015年6月18日(木)No.1384

2015-06-19 00:34:49 | がんばろう沖縄

今日は11時10分に宿を出発したのに数分で着いた瀬嵩の浜には

もうカヌー隊が帰還していました。

下の浜まで降りることを断念し、上の道路で「基地建設NO!」の紙を掲げて連帯行動をしました。


辺野古レインボウの「平和丸」。

全部で船は6,7隻あるそうです。

チョイさんのブログにでてくる「ラブ子」はどれかなあと思ってみるのですが分かりませんでした。


今日で海と風の宿に泊まって連日早朝から夕方まで座り込みとカヌー隊で頑張ってきた

茨城県のチバさんが帰ります。

帰ると言っても、4月、5月、6月と連続で来ているのです。

地元の町内会の会合を先月も辺野古に来ていて参加できなかったので、

今回は出席せねばならないという理由です。

本当に誠実な人なんだなあと思います。

きっと7月にも最小限度の荷物を持ち、身軽なバックパッカースタイルで辺野古にやって来るでしょう。

今夜は最後の晩餐ということで張り込んでヤグー豚の焼き肉をしました。

300円の夕食代を遥か超える材料費でしたが、

毎夕、グナアの散歩も行ってくれたチバさん、食べた後はきっちりと後片付けをしてくれたチバさんに

精一杯のおもてなしです。

またいつ会えるか分からないのですから。

 

グナアは一昨日、拾った骨を食べて喜んでいたのですが、

昨日はそのせいか、何度も吐いて食欲不振です。

今日も何となく弱弱しい感じ。

 

宿の外にはハイビスカスが今日もはり込んで咲いています。

30度を超えても、日陰は風爽やかでとても気持ちがいいんですよ。

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「瀬嵩の浜に戻るカヌー隊」2015年6月17日(火)No.1383

2015-06-17 21:27:50 | がんばろう沖縄

11時半前、「海と風の宿」まで掛け声が聞こえたので

掃除機を打っ棄って瀬嵩の浜に向かいました。

ちょうど辺野古ブルー(カヌー隊)のメンバーが海保による拘束を解かれ、

瀬嵩の浜近く(自力で歩いて浜に戻れる地点)に降ろされるところでした。

昨日からカヌー隊に参加している19歳の投宿者ナナミさんが心配だったり、

連日激闘するメンバーのみんなをせめて出迎えたかったりして、

私は思わず拍手をしました。

浜に戻るメンバーに手を合わせ拝んでいるオジイもいて、

私はその姿に目頭が熱くなりました。

(何度も言うようですが沖縄ではオジイ、オバアは

心からの親しみを表す言葉です。

決してジジイ、ババアとは言わないのです)。


↓近づいてきた海保のゴムボート。拘束されたカヌー隊メンバーが乗っています。

 

↓これくらいの深さのところでメンバーを開放します。

後でナナミさんに拘束時の様子を聞くと、

自力でフロートを越えられて喜んだのもつかの間、

転覆させられ、つかまらない様に泳いでいたら後ろから両脇を羽交い絞めにされ、

暴れたら、「もっと強くするよ。」とか「もっと酷いことになるよ。」

などと言われたそうです。

彼女は最後までジタバタと暴れて抵抗したのですが、

敢え無く拘束されてしまったとのこと。

いざとなれば、女性の方が肝が据わっているとよく言われますが、

若干19歳のナナミさんもその一人です。

 

↓「海保は暴力をやめろ!」と浜ではたくさんの人々が叫んでいます。

 

毎日、辺野古ブルーのメンバーは、

午前と午後に炎天下の海上に小さいカヌーを漕ぎだし、

一分でも一秒でも工事を引き延ばすための直接行動をしています。

今日の琉球新報に『6月末までのボーリング調査完了は無理で、

再延長する方向で検討する旨、防衛省が発表』と出ていました。

諦めないで、前へ前へ進むカヌー隊、

何度引き抜かれても、また座り込むゲート前の人たち、

毎日、毎日、雨の日も、炎天下も辺野古で続けているこの直接行動が、

あきらかに工事を遅らせています。

 

ところで、カヌーの一つにこんな名前を発見して、思わずニンマリしました。

関西の労組ではかなり有名な、「関西生コン」です。

(やるなあ!)

 

↓最後は、辺野古ブルーの挨拶と、浜で応援していた側の人が挨拶をし、

シュプレヒコールでしめました。

このあと、私は大急ぎで宿に戻り、せっせと掃除をしたり、布団を干したり、

首に巻いたタオルを何回も取り換えるほど汗まみれになって、

今日も一日よく働きました。

沖縄の「島ぐるみ」の皆さんは、自分の家の用事を放ってでも

こうして日参しています。

もはや闘いが生活になっているのです。

誰が好きこのんでこのような生活を送りたいでしょう。

未来に平和を築くために、今できる全てをしているのです。

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「辺野古は学校だ」2015年6月16日()No.1382

2015-06-16 23:23:29 | がんばろう沖縄

瀬嵩の浜から振り返って見たヤンバルの森。

梅雨も明け、連日30度を超える名護地方です。

先週から連日瀬嵩の浜での抗議行動が続いています。

昨日は宿の掃除がまだ片付かない11時半、抗議団の声に誘われて、

浜まで走って行ってきました。

ちょうど辺野古ブルー(カヌー隊)が拘束を解かれ、浜に引き上げてきたところでした。

浜辺で応援する人々は50人くらだったでしょうか。

「沖縄県市民会議」の旗が翻っていました。

辺野古ブルーの最年少19歳の少年が挨拶しました。

「僕は海が怖い。海保が怖い。怖くて吐き気がするほどです。

でも、応援してくれる人たちのことを想い、毎日カヌーに乗っています。」

少年は普段、明るくてそんな風には見えない、と

宿に戻ったカヌー隊のチバさんが教えてくれました。

チバさんは百戦錬磨の大ベテランです。

年金生活の中、毎月、ピーチやジェットスターなど格安航空機に乗って来て、

格安宿の「海と風の宿」に10日から2週間ほど滞在し、

毎日カヌーを漕いでは海保と直談判の交渉をしています。

「税金で1個が1万6千円もするフロートを買うなど、ぼくは認めない。

僕の税金分として3個ほど家へ持って帰るよ」

などと冗談を言うと、海保の指揮官が

「それは困ります」

と言ったなど、毎日の海での出来事を聞くのが私の楽しみです。

 

昨日の19歳の少年は、ここ辺野古で、

踏ん張ることの苦しさ、大切さを学んでいます。

まるで辺野古は若者たちの学校のようだと私は思います。

この「海風」にも4日前広島の19歳のフリーターの女性が投宿しました。

16日間、座り込みとカヌー隊で頑張るため、荷物まで送ってきました。

 

全国の若者たち、どんどん辺野古にいらっしゃい。

辺野古は人生で最も大切なことが学べる学校です。

 

↑自転車で「わんさか大浦パーク」に買い物に行く途中、見つけました。

あちこちに基地建設反対のバナーが掲示されています。

 

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「グナアの呑気な生活」2015年6月11日(木)No.1380

2015-06-09 20:52:16 | がんばろう沖縄

「海と風の宿」の飼い犬、グナアは人が起きてくると、

クウン、クウンと鳴いて如何に自分が散歩を待ち焦がれているかアピールします。

仕方がない、今日も暑いが、行くしかありません。

先日洗濯物を取り込むときにテーブルから落下し、

それ以来右足薬指の腫れも引かないのですが、

足を挽きずりながら出発しました。

グナアの糞袋を片手に、もう片方にはデジカメを持って。

見てください、リードをぐいぐい引っ張りながら闇雲に進む

散歩の躾の行き届いていないこのワンちゃんを。

そのくせ、本人もどこに行くか、計画も立てていないのです。

 

ここんとこ毎日朝は瀬嵩の浜コースを歩くように私がコントロールしています。

朝の海の海保と抗議船の様子を見るためです。

波打ち際には今日もカニやヤドカリをはじめ、いろんな生物が動いていました。

 

↓フロートとオイルフェンスの向こうに見えるのは海保のゴムボート。

カヌー隊の人に聞いた話、ゴムと言ってもとても分厚くて固く、鋼鉄のようだそうです。

500馬力のエンジン2つを搭載して、

カヌー隊が四苦八苦しているフロートとオイルフェンスを

何の苦も無く一瞬で越えてきます。

海上をバリバリ喧しい音を立てて蛇行するこのゴムボートは

まさに海の暴走族と言えるでしょう。

向こう側の白いビルはキャンプシュワブの米軍基地の建物です。


↓ボーリング工事用のクレーン船などが見えます。この海の底で貴重なサンゴが

押し潰されています。

 

美ら海とその破壊者。

 

↓散歩はこの曲がり角を瀬嵩公民館の方に曲がり、宿に着きます。

3つあるバナーのうち2つは基地建設反対のものです。

 

今日も浜から海保の慇懃無礼な

「危険水域・・・立ち入り禁止・・・、ご協力お願い・・・」の声が聞こえてきます。

カヌー隊を立ち入り禁止にする傍ら、

立ち入り禁止水域で泳いだり、モリを持って魚取りをするアメリカ兵には

なんにも言わない海上保安庁。日本はアメリカの従属国としか言いようがありません。

日本政府がひたすらにそれを望んでいるのです。

 

さて、瀬嵩の浜の抗議活動も一週間ほど続いていますが、

昨日、今日と私はそちらに参加せず、宿の草刈りを決行しました。

ベルトのない草刈り機は大変使いづらかったのですが、

あまりの草ぼうぼう状態をいつまでも放置できません。

新基地建設強行への抗議を聞きつつ、庭全部の草を刈りました。

↓グナアさん、大喜びでゴロンゴロン。

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「お客が盛り上げる宿・その1」2015年6月9日(火)No.1379

2015-06-09 19:01:38 | がんばろう沖縄

「海と風の宿」のシーサーその1

名護市瀬嵩の浜の「海と風の宿」には次々と凄いお客さんが泊まりに来ます。

先日の岐阜の女性4人組は4人で常に議論しており(言い合いではない)、

いつも複数の人が同時に喋っているので

何を言っているのか聞き取れないことも多々ありました。

驚愕したのは、その中の一人が台所で、

解凍したきびなごをたれも何もつけず頭からちゅるんと食べてしまったことです。

私は自分の見たことがにわかには信じ難く、

「あの、頭も全部食べたんですか」

とボケた質問をしました。

その人(スミさんとしておきましょう)は、「そう、美味しいよ」とか言って

もう一匹、頭からちゅるんと食べました。

(岐阜ではそうして食べるのかあ)と思いましたが、他の3人は強く否定しました。

サッと茹でてポン酢でいただくのが一般的だとのこと。

今でも、スミさんがまるでアシカかオットセイのようにきびなごを丸のみした様子が

ありありと目に浮かんできます。

岐阜県人、侮りがたし。


4人は全国母親大会に毎年欠かさず参加しているそうです。

私は自分が母親であるにも拘らず、その会にはほとんど関心を抱かず、

その会ができたきっかけも知りませんでした。

母親大会はビキニ環礁でのアメリカの水爆実験と

第五福竜丸の23名の漁船員の被爆(アメリカによる日本人の第三の被爆)をきっかけに

平塚らいてふが原水爆禁止の訴えを呼びかけ、

世界母親大会への参加へとつながったものだそうです。

今年も8月1日、2日の二日間神戸で「日本母親大会」が開かれるそうです。

基地問題の分科会もあるとのこと、

私も生まれて初めて参加しようと思います。

 

そんな4人が海風に宿泊したのは、辺野古の新基地建設反対闘争に

参加するためでした。

6月3日は早朝から夕方まで座り込み行動に参加した4人組は

反省会で自分の意見も述べ、話し合うことで現場の厳しい状況も理解して

宿に戻ってきました。

4人とも戦後民主主義の子ども達なんだな、と感じ入りました。

こんな日本人が日本にもっとたくさん居たらなあ……。

空気読む人ばっかじゃどうにも打開しようがない日本社会のムードですよねえ。

 

「海と風の宿」のシーサーその2

 

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「どうして沖縄はそこまで抵抗するのか」2015年6月7日(日)No.1378

2015-06-07 20:58:35 | がんばろう沖縄

「どうして沖縄はそこまで抵抗するのか」

これは沖縄の人たちが県外の報道記者からよく受ける質問だそうです。

その質問への答えの一つになるのではないかと

思えるのが次の資料です。

「沖縄は基地で潤ってきたじゃないか」

と本土で冷ややかに言う人は、この資料を読んだ後も

同じ言葉が言えるでしょうか。

人間はお金だけでは生きていけません。

人間が生きて行くには誇りが必要なのです。

 

      【米兵による戦後沖縄の女性に対する犯罪】

年代

月 日

事  項

処罰の方法

出典

1945

3.26

沖縄戦で米軍が初めて座間味村に上陸。数カ月後、米兵による強姦事件が発生。拉致してボートで連れ出し、裏海岸で強姦した後、放置。

不明

8

 

4月

米軍上陸後、強姦が多発し、各地域で住民による自警団が結成される。

 

8

 

8.20

祖母と食料探しのため海岸に出た32歳の女性、米兵につかまり強姦される。翌年4月、混血の男児を出産。(玉城村)

不明

10

 

8.21

友人2人と、子どもをおぶって薪取りに出かけた31歳の女性、米兵3人に拉致され消息を絶つ。(座間味村)

不明

2

 

9.8

子どもをおぶってヨモギを摘んでいた39歳の女性、4人乗りの米兵のジープに拉致され、カーブで道ばたに放り出される。背中の子どもは死亡。(羽地市)

不明

2

 

9.24

男性2人と石川の収容所に親戚を訪ねていく途中の19歳の女性、子どもをおぶったまま3人の米兵に拉致される。男性2人は米兵に銃を向けたれ、抵抗不可能。母子は2年後に白骨死体で見つかった。(石川市)

不明

2

 

10.24

46歳の女性、道路で米兵2人に襲われそうになり、がけ下に飛び降りて大腿骨折。その後、追ってきた2人に強姦される。(本部町)

不明

10

 

10.25

家具を失って岩の下で居住していた35歳の女性、夜トイレからの帰りに米兵2人に強姦される。翌年8月、男児を出産。(知念村)

不明

 

この年

 

宜野座米軍野戦病院に収容された重傷の女性を、MPが強姦するのを沖縄人労働者が目撃。

不明

4

1946

1.21

草刈り作業中の23歳の女性、米兵に森の中に連れ込まれ、ナイフでほおを切られたあと強姦される。その後、妊娠、出産する。(兼城村)

不明

10

 

1.

草刈り作業をしていた19歳の女性、米兵にすすき林の中に連れ込まれ、強姦される。混血の女児を出産。(糸満町)

不明

10

   

この月から、沖縄の女性たちに混血児が生まれる。(沖縄本島上陸から10カ月)

 

5

 

3.10

農作業中の30歳の女性、米兵3人に拉致、強姦される。12月に男児を出産。彼女の姉も、前年、出産直後、寝ていたところを米兵に拉致されそうになったが、住民の騒ぎで未遂に終わった。(具志川村)

不明

2

10

 

7.26

川に洗濯に出かけた34歳の女性、行方不明になる。8月1日に死体で発見されるが、口にぼろ切れが詰め込まれていたことと、住民の立入禁止地区で発見されたことから、米兵による強姦、殺害と推定された。(北谷村)

不明

10

 

8.30

芋の積み込み作業をしていた24歳の女性、米兵に捕まって強姦されそうになったところを抵抗。ナイフで切りつけられ重傷を負う。数人の男性の騒ぎで米兵は逃げてしまう。(具志川村)

不明

10

 

10.

農作業中の39歳の女性、米兵3人に山中に連れ込まれて強姦される。(具志川村)

不明

 

46~47

 

本土や海外からの引揚者が収容されていたキャンプのテント村では、米兵が進入して女性を強姦した。乱暴された後、自殺する娘も多かった。母、娘とも強姦されたケースもある。

 

9

47

3.

大勢の人たちと農作業をしていた女性、逃げ遅れて3人の米兵に拉致、強姦される。後に赤毛の男児を出産。(具志川村)

不明

2

 

5.8

34歳の女性給仕、所用で出かけて戻る途中、米兵に拉致され、浜辺で強姦される。農作業中の人たちに助けを求めたが助けられなかった。
(大宜味村)

不明

10

 

8.20

外出から帰ってきた24歳の女性、屋敷に潜んでいたフィリピン兵に強姦されそうになり、抵抗したところをナイフで刺殺される。(コザ市)

不明

10

 

9.9

28歳の女性、自宅にピストルを持った米兵が侵入したため、一旦逃げるが、生後6カ月の子どものことが気になり、戻ってきたところを畑に引きずり込まれて強姦され、ピストルで殴打されて死亡。(コザ市)

逮捕されるがその後、不明

 
 

10.

畑を開墾中の42歳の女性、フィリピン兵らに強姦される。(具志川村)

不明

10

1948

7.

中部農林高校の寄宿舎が台風で破壊されたため、民家に下宿していた女子高生、家主の知り合いの米兵に強姦される。助けようとした家主はナイフで切りつけられる。(具志川村)

不明

10

 

8.

フィリピン兵の集団に女性が拉致される。救出に行った地元の男性2人のうち、一人は殺され、一人は負傷。

不明

9

   

このころ、米兵が基地のまわりの民家に昼夜なく現れ、片言の日本語で女性の名を呼びながら、うろつく。(沖縄本島中部)

不明

6

 

9.14

生後9カ月の赤ちゃんが米兵によって強姦される。

不明

3

1949

9月

混血児人口450人
(那覇94人、前原50人、コザ73人など)

米国の「タイム」誌(1949.11.28)は、沖縄に駐留する米兵が「米軍の才能のないものや、のけ者のていのよいはきだめになっていた。9月までの6カ月間に米兵は18件の犯罪を犯罪を犯した」と論述する。(抜粋)

 

7

1

 

12

米軍部隊のメイドとして、働いていた17歳の女性、兵隊宿舎の中で米兵に強姦される。翌年、混血の女児を出産。(具志川村)

不明

2

   

1945年の上陸から、この年までの米軍人による沖縄住民に対する強姦、及び致死傷76件(うち強姦致死4人、拉致をおそれて車または崖からの転落死7人)-表沙汰になったもの

 

5

1950

2.17

夜11時頃、那覇市内で芝居見物帰りの2人の女性が米兵にカービン銃で脅迫されて連れ去られ、一人の女性は6人の米兵に、またもう一人は8人の米兵に強姦される。

不明

1

 

7.5

民家にフィリピン兵が侵入してピストルを乱射。主婦が捕まって強姦される。(具志川村)

不明

10

   

この年の朝鮮戦争勃発で沖縄における米軍基地建設はピークに達し、沖縄は朝鮮への発進基地となって米兵があふれる。

 

6

1951

5.

戦後6年間の強姦事件は278件

 

1

1952

3.25

那覇市内の民家に米兵がCIDと偽って入り込み、21歳の女性を強姦。さらに1時間後に引き返してきて逃げ回る女性を殴りつけ、再び強姦する。米兵はエンジニア部隊所属。

不明

1

1955

9.3

永山由美子ちゃん(6歳)が、嘉手納高射砲隊所属の米兵に拉致され、強姦された上、惨殺される。(石川市)

死刑判決後、45年の重労働に減刑

1

3

 

9.9

9歳の少女が就寝中に海兵隊所属の一等兵に強姦拉致され、重傷を負う。(具志川村)

終身刑

1

3

1956

9.23

特飲街でホステスが海兵隊伍長に惨殺される。変態性欲者の犯罪といわれる。(宜野湾村)

懲役8年

1

1959

3.17

20歳のハウスメイドが那覇航空隊近くで一等兵に強姦される。

陪審員合議で懲役10年、
平籍はく奪

1

 

10.28

22歳のホステスが米兵に強姦、絞殺される。死体は全裸で発見される。(コザ市)

懲役3年

1
3

1961

7.11

47歳のホステスが部隊を脱走した19歳の海兵隊員によって殺される。

逮捕され、一人は無期懲役

1
3

1963

7.3

22歳のホステスが那覇航空隊所属の上等兵に惨殺される。ふられた腹いせによるもの。

   
 

10.1

20歳のホステス、キャンプ・シュワーブ所属の米兵2人に野原に引き出されて強姦される。犯人はMPに現行犯逮捕される。(久志村)

不明

10

1965

1.24

28歳の女性のホステス、自宅で殺害される。米兵が容疑者として、取り調べを受ける。(金武村)

不明

3

1966

7.21

勤め先から帰宅途中の31歳のホステス、米兵に強姦、殺害され、全裸死体となって下水溝で発見される。(金武村)

迷宮入り

1

1967

1.24

32歳のホステスが18歳の海兵隊員によって絞殺、全裸で発見される。(金武村)

重労働35年の判決

1
3

 

4.2

34歳のホステスが米兵に強姦、絞殺される。(コザ市)

不明

1

 

11.20

20歳のホステス、自宅で就寝中に米兵にハンマーで頭を殴られ死亡。(金武町)

迷宮入り

1

   

この年、ベトナム戦争からの帰還兵による強盗、ホステス殺しが続発する。

このころ、米兵相手のバーでは、女性が一人でトイレに行くのは自殺行為だと言われた。

 

1

9

1968

3.29

浦添村の米軍施設内に努めていた35歳のメイドが同施設内に勤務する米人女教師に殺される。

米軍当局の許可で本国帰還

1

 

5.19

52歳の主婦、自宅前の路上でミサイル基地所属の上等兵に強姦、殺害される。(読谷村)

韓国へ出動させるが沖縄県警の捜査で逮捕。終身刑。

1

10

 

6.20

23歳のホステス、海兵隊MPに強姦される。その後短銃で殴りつけられたため、重体。宜野座村)

逮捕後不明

1

1969

2.22

21歳のホステス、砲兵連隊所属の二等兵に絞殺、全裸死体で見つかる。(コザ市)

逮捕後不明

1

 

3.3

20歳のホステスが死体で発見される。司法解剖の結果から米兵の犯行と断定。(那覇市)

迷宮入り

1

 

11.21

アルバイト帰りの25歳の女性を路上で上等兵が強姦。抵抗するたびにナイフで切りつける。(那覇市)

俸給二カ月分の罰金、降等

10

1970

5.28

出勤途中の21歳の軍雇用女性、米兵に襲われる。(浦添村)

証拠不十分で無罪

3

 

5.30

下校途中の女子高生が軍曹に襲われ、腹部、頭などめった刺しにされる。強姦が目的だったようだが、騒がれて未遂。教職員会、女性団体、高校生らの抗議で逮捕。(具志川市)

懲役3年の重労働、降等

 

この年

 

朝7時半頃、高校3年の女性とが登校中に、突然体が宙に浮き、上半身裸の3人の米兵に腕を捕まれたままジープで数秒間引きずられた。(宮古)

   

この頃

 

バーを経営していた女性が、カウンター内に入り込んで来た米兵に強姦される。その際、足と首に大けがをし、働けなくなる。

犯人は裁判中に配置転換

9

1971

4.23

22歳の女性ホステスの全裸死体が墓地で見つかる。目撃者の証言で海兵隊所属の伍長が逮捕される。(宜野湾市)

血液型が被害者と同じため証拠不十分で無罪

1

 

5.1

41歳の女性が海兵隊二等兵にドライバーで刺殺される。指紋体液の血液型などの証拠で逮捕。(金武村)

不明。本人は否認

1

 

5.21

女子中学生が米兵に強姦される。(コザ市)

犯人あがらず

1

 

5.23

出勤途中のホステスが米兵に空き家に連れ込まれ、強姦される。(コザ市)

迷宮入り

1

 

7.10

自宅前で遊んでいた12歳の精薄児を3人の米兵が輪姦。(宜野湾市)

逮捕後不明

1

1972

4.10

25歳のホステスを陸軍軍曹が殺害。排水溝に投げ捨てる。(泡瀬ゴルフ場横)

懲役18年

1

 

8.4

37歳のホステスが二等兵によって強姦、絞殺される。(宜野湾市)

無期懲役

1
3

 

12.1

22歳のサウナ嬢を海兵隊二等兵が強姦、シミーズのひもで絞殺。(コザ市)

無期懲役

1

1973

3.18

42歳のホステスが全裸絞殺死体で発見。第二兵たん所属の兵隊の血液型、指紋が現場のものと一致したが、物的証拠がなく、逮捕不可能。地元警察の米軍側への申し入れにも関わらず容疑者は二ヶ月後に除隊し、本国に帰る。(コザ市)

迷宮入り

1

1974

5.8

叔父と共に農道を歩いていた17歳の少女が、米少年兵3人に全裸にされたうえ輪姦される。叔父が殴られて気絶していたときの犯行で、叔父の訴えにより、犯人が判明。(金武村)

不明

1

1975

4.19

海水浴に来ていた二人の女子中学生をキャンプ・ハンセン所属の二等兵が石で殴って気絶させ強姦。米軍は容疑者の身柄引き渡しを拒否したが、地元住民、県議会の抗議行動で地元警察に引き渡す。(金武村)

懲役6年

3

10

1982

8.1

33歳の女性ホステス、新築工事中の部屋で、上等兵に絞殺される。強姦しようとしたところを抵抗され、殺す。(名護市)

懲役13年

1

1984

9.30

19歳の米軍一等兵女性、一等兵と二等兵に強姦され、車ごと焼かれて死亡。(宜野湾市)

懲役13年

1

1985

10.29

40代の女性が帰宅途中、キャンプ・ハンセン所属の二等兵と上等兵に拉致・強姦される。(金武町)

現行犯逮捕刑は不明

1

1993

5.

19歳の女性が陸軍軍曹に拉致、強姦される。被害者は告訴取り下げ。

除隊

3

1995

5.10

24歳の保険外交員の女性、米兵にハンマーで顔面を殴られ死亡。(宜野湾市)

係争中

3

 

9.4

米兵3人による小学生拉致、強姦事件発生

2人懲役7年・1人6.5年

3

 作成:高里鈴代・宮城晴美(1962.2.2)

〔出典〕

1.比賀朝進「戦後50年犯罪史」(風土記社)
2.福地廣昭「沖縄における米軍の犯罪」(同時代社)
3.沖縄タイムス
4.那覇市「那覇市史 飼料第3巻8」
5宮里悦編「沖縄・女達の戦後」(沖縄婦人運動史研究会)
6.「島マスのがんばり人生」(回想録編集委員会)
7.「うるま新報」
8.証言
9.NHK/ETV特集「沖縄は何を怒ったのか-軍隊と性暴力を問う女性たち」
10.福地廣昭「米軍基地犯罪」(労働教育センター)

〔凡例〕

1.「具志川村」は現在の「具志川市」のこと
2.地名は、事件当時の市町村名を使用
3.新聞の表記では「乱暴」「暴行となっているものでも、状況から「強姦」と思われるものはそのように表記している。
4.出典名が二つあるのは、両方を参考にしたと言うこと
「不明」は、捜査自体が行われていないと考えられるものもある。

 


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「宿で腕の見せ合いっこ」2015年6月6日(土)No.1377

2015-06-06 18:40:10 | がんばろう沖縄

昨夜、ブログにナオコさんの腕の写真を載せるため、

どんな状況だったか聞いていると、

長期滞在のミヤさんと一週間滞在の中さんが、

我も我もと腕をまくって見せてくれました。

下は青あざができた中さんの腕。

一昨日4日の座り込み時に引っ張られてできたもの。

4日とは機動隊の指揮官が

「この犯罪者たちを排除しろ!」と市民を指して部下に命じたことに

抗議して、前日と違い人数が少なかったためにたちまちごぼう抜きされた日です。

同様にミヤさんも・・・。

これは暴力ではないのでしょうか。

非暴力座り込みの人たちはほとんどがこのような怪我をしているのです。

4日はカヌー隊にもけが人が出ました。

下の琉球新報の第一面に載った記事を見てください。

海の暴走族、海保のボートが、泳いでボーリング工事への抗議に向かった

カヌー隊(辺野古ブルー)の一人に真正面から突っ込む直前の写真です。

今辺野古は、沖縄県民の意思をねじ伏せて従わせ、

何が何でもボーリング工事を進めようとする国家が、

それを何としてでも止めようとする沖縄県民や本土からの支援者を

暴力的に叩き潰そうとしています。

もっと、たくさんの人数が現場には必要です。

本土から多くの人たちが何度も、何度も、手弁当で駆け付けていますが、

いまだ来られていない本土の人で、来ることができる方がた、

どうぞ現地に足を運んでください。

どれほど沖縄県民が深刻に思い、死を賭してでも辺野古に基地を作らせないと

決意しているかが、ひしひしと伝わってくると思います。

本土のメディアは連日の辺野古の状況をぜひ継続して伝えてください。

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「激動の辺野古3日間」2015年6月5日(金)No.1376

2015-06-05 21:54:54 | がんばろう沖縄

6月3日、キャンプシュワブゲート前に何百人もの人々が集まりました。

前日からのボーリング工事再開に抗議し、

工事関係車両を通さないための座り込み大行動の要請に応え、

島のあちこちから、そして本土から、朝6時にゲート前に結集したのです。

我が?「海と風の宿」からも、

前日から泊まっていた岐阜の女性4人元気組が、

3ヶ月滞在のミヤさんの車とナオコさんの車に分乗して先発し、

ナオコさんが再度宿に戻って、

私、神戸のムラヤマさん、えりかさん(ナオコさんのお嬢さん)を

乗せて行ってくれました。

つまり、宿をすっからかんにして

全員辺野古のキャンプシュワブゲート前に駆けつけたのです。

下は翌日4日の琉球新報です。

私がこの写真のどこかにいます(正確に言えば帽子だけ)。

スクラム組んでいたナオコさんは機動隊にムギューっと

腕を引っ張られてこんなになってしまいました。

瀬嵩の浜も6月2日から連日賑やかになってきました。

今日も宿までマイクの声や太鼓の音が聞こえてくるので駆けつけると、

こういう場面でした。

海保に拘束された辺野古ブルーを解放すること、

ボーリング工事を直ちにやめることを海に向かって叫んでいるのです。

「不屈」「平和丸」などの船の名前が見えます。

浜には島ぐるみ会議のメンバーが降りていっています。

読谷村の旗が見えます。

「知花昌一さんもあそこにいるよ」と教えてくれたのは

今年2月だったか、「反省する海保たろう」のシナリオを書いた読谷村の

わんから?グループの方でした。

読谷村は何十年も前に私が沖縄で初めて覚えた村の名前です。

読谷高校の女子高校生が涙ながらに日の丸にしがみつき、

「校長先生、日の丸をあげるのをやめてください」と訴えた1987年の事件は

深く心に留めた出来事でした。

その時の女子高生は今、40代です。

ひょっとしてこの中にいるかも知れないと思い、

ちょっと胸がドキドキしました。

金曜日は小学校の読み聞かせの日なので、

後から宜野湾グループのバスできたという女性はこんなTシャツを着ていました。

 

抗議の傍ら、記念撮影(^_^;)。

左からえりかさん、ナオコさん、読谷の読み聞かせ名人。

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「ぞくぞくと人々が本土から」2015年6月2日(火)No.1375

2015-06-02 22:42:00 | がんばろう沖縄

「海と風の宿」は元々、沖縄の自然が大好きでお金のない人たちが泊まる宿でしたが、

今は辺野古新基地建設反対を一緒に担おうと駆け付ける本土からの人たちが

毎日、入れ代わり立ち代わり宿泊するところになっています。

一昨日から今日までは関西の元気な熟年グループが登場しました。

この手作り看板、飛行機で運んできたそうな。

折り紙のジュゴンも自前で、ナオコさんのお嬢さんが折り方を教わっていました。

 

素泊まりが基本ですが、今は辺野古ブルー(カヌー隊)メンバーの要望で、

夕食を提供しています。

お客さん持参の料理もあり、辺野古のこと、お互いの地域のことなど、

食べながら、飲みながらの交流の場になっているのはいいですね。 

イギリスから駆けつけたお嬢さんもいます。

(しかし、準備が大変だ(^_^;))。

 

 右手前が辺野古ブルーのメンバー。

毎日、毎日日焼けして帰ってくます。熱射病にならないか心配な季節であり、

彼の顔を見れば、ご飯の支度ぐらいはお安い御用だと思えるのです。

 

 関西4人組はちゃっちゃと朝からごはんの支度をして食べています。

ナオコさん母子もいっしょに和気藹々と過ごす朝のひととき。

 

 さて、4人の出発後、宿の掃除や洗濯をしていると、

外から何やら掛け声がするので見に行ってみました。

ゲート前の座り込みメンバーが瀬嵩の浜に来て、

「カヌー隊、頑張れー!」

「沖縄県民がついているぞー!」

「ボーリング工事を直ちにやめろー!」

などと大声で叫んでいるのでした。

私も30分だけいっしょに叫びました。

 

 

下の人の服と旗は自前で作ったそうです。

あちこちに分散して沖を見る島ぐるみ隊のメンバー。

瀬嵩の浜から出発して行く辺野古ブルーのメンバーたち。

後ろ髪を引かれながら宿に帰りました。

何しろやらなければならないことがてんこ盛りなので(*´∀`*)。

 

夕方、今度は岐阜の女性たち4人がキャンプシュワブ・ゲート前から

宿泊に来ました。

今夜もパーティーです(笑)。

宿の外に出ると、ほぼ満月のお月様。

ヤシの木の向こうに美しく見えましたが、このデジカメの性能が悪く

こんなふうにしか写りませんでした。

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「ダグラス・ラミス:沖縄県民大会とこれから」2015年6月1日(月)No.1374

2015-06-01 20:57:36 | がんばろう沖縄

5月29日の琉球新報より

ダグラス・ラミス氏:

1936年アメリカ・サンフランシスコ生まれ。

カリフォルニア大学で政治思想史を学ぶ。

在学中に海兵隊入りし、60年沖縄に駐留。61年除隊。

80年から津田塾大学教授(政治学)。

2000年退任後、沖縄に移住し、執筆・講演活動を続けている。

近著「戦争するってどんなこと?」(平凡社)

―――――――――――――――――

5・17県民大会とこれから―私の視座―

「意見」から「活動」へ

勝利はもう決まっている

私は1月から週2回ぐらい、那覇発の島ぐるみ会議のバスに乗り、辺野古のゲート前座り込みに参加している。2,3週間前からある噂がバスの中に流れはじめた。それは5月17日の県民大会で、翁長雄志沖縄知事が「爆弾発言」をするという噂だった。もちろん、それは「大浦湾の埋め立て承認の取り消しを決めた」という発言だろうと、私たちバスに乗った人たちは想像した。

しかし、17日の大会では知事のそのような発言はなかった。なぜ自分が新基地に反対するのかという話だった。訪米した知事がアメリカの国益しか考えていない米政府に同じような話をすればどうなるか、と心配になった。

しかし25日、知事は(小型)爆弾発言をした。指名した有識者委員会が取り消す法的根拠があると決めれば「取り消すことになる」と言った。まだワンクッションが入っているが、「検討する」という言い方より強いのだ。ところが次の日、菅官房長官は(これも小型)爆弾を投げ返した。つまり、知事が承認を取り消しても「工事を進めながら裁判を争うことになる」と述べた。「取り消し」で闘いは終わらないのだ。

「政府」と運動の違い

このことで私が再確認したのは、やっぱり翁長知事は『政府」であり、「政府」が運動の先頭に立つと期待することは間違いだということ。それは批判ではなく、ただ役割の違いに認識である。知事は知事として市民的不服従運動に参加できないだろう。米軍基地のフェンスにリボンやテープをつけ、カヌーに乗ってオイルフェンスを越えることもできない。「ワイヤーカッター(例えばフェンスのワイヤーを切る道具)」という言葉を彼の語彙に入れるわけにはいかないだろう。そして日米政府と交渉した場合、法の細かいところ、手続きや礼儀のルールも守らなければならないだろう。つまり、動きは遅いのだ。

そういう状況の中、市民運動はどうすればいいだろうか。文句を言っても仕方がないので、知事の決断を待つのではなく、自分が先頭だと認識し、先に動くしかないだろう。これは提案ではなく現状把握だ。つまり事実として、前から沖縄の市民運動は先頭になっている。

直接民主主義の復活

民主主義はいつ沖縄に来るか、という問いがあるが、その答えは民主主義の定義によるだろう。デモクラシーの本来の意味はその言葉の語源になっている古代ギリシャ語にある。demosは民衆であり、kratiaは力、権力、統治力という意味である。それがいわゆる直接民主主義だ。その何世紀も後に現れた間接民主主義は違う。それは、民衆は意思、つまり民意を示し、政府はそれに合うような政策を取る、というような制度だ。そうなると実現力は、力、つまり権力は政府にあることになる。民衆は民意を示し、政府はそれを基にして統治する、という役割分担だ。

現代の民主国家のほとんどはその間接民主主義(選挙民主主義とも呼ぶ)となっている。しかし直接民主主義は制度になっていなくても、事実として復活することがある。

例えばインドがイギリス帝国から独立できたのは、イギリス政府がインドの民意を尊重したからではなく、インドの国民が市民的不服従・非協力運動を展開し、だんだんと大きい権力になったからだ。インド国民は独立を訴えたのではなく、決めたのだ。ちなみに、マハトマ・ガンジーはインド独立前も後も、インド政府に勤めたことはない。

同じように、アメリカの黒人公民権運動の場合も、南部の州では人権による隔離制度は法律になっていて、黒人は政府にいくら訴えても政府はその制度をなくそうとしないので、若い黒人たちはその法律をわざと破る戦略を選んだ。例えば黒人立ち入り禁止のレストランに入り、座り込んで、出ろと言われても出ない、など。政府がやっと隔離制度を廃止したのは、黒人がその制度に反対の意見を持っていたからではなく、、黒人がその制度を守らないと決めたからである。

ちなみに、そのリーダーであったキング牧師に大統領選挙に出るように説得しようとした人がいたが、キングは断った。なぜなら、大統領になったら「政府」になり、政治活動できなくなるから、と彼は説明した。

もっと最近のこと。プエルトリコの離島であるビエケス島には米海軍の実弾演習場があったが、その村民の市民的不服従運動によってなくなった。島民はいろいろなことをやったが、演習場に入り、座り込み、テント村をつくり、使えなくした活動が最も効果的だったらしい。海軍にとって使えない基地はいらないので、その演習場を本土のフロリダ州へ移設した。

 

ピープルズ・パワー

5月17日の県民大会の話に戻る。その会場で、沖縄県民の辺野古新基地建設反対運動は絶対に負けないと思った。舞台からの言葉(それは立派だったが)を聞いてそう思ったわけではない。舞台ではなく、その場に集まっていた3万5千人(プラスα)の県民の姿を見て、これはすごい力だと思った。

民意=ピープルズ・ウィル(意見の段階)からピープルズ・パワー(活動の段階)に切り替える時、勝利はもう決まっているだろう。政治家の挨拶はもう十分に聞いたので、これからはゲート前が中心になるだろう。

翁長知事自身が選挙の時の演説で言ったように、(県内移設反対は)県民の動きが先で政府は後から来た。これからもそうだろう。

 

 

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