日中戦争時、国策で「開拓」団として旧満州に渡った多くの日本人がいた。
李(渡辺)さんは彼の地で生まれ、西井さん、石原さんは幼児の頃、
父母に連れられて行った子どもたちだった。
多くは残留孤児となって辛酸をなめつつも中国の大地に根を張り、
養父母に育てられるなどして生きのびた。
彼らが合法的に日本に戻れるようになったきっかけは、
1972年の田中角栄・周恩来による日中国交正常化であったが、
多くの場合、自分が築いて来た生活を捨てて
言葉も分からない祖国であっても、日本に戻ろうと決断をしたのは、
あの文化大革命での大迫害であった。
帰国者たちには愛してやまない祖国が二つある。
父母の故郷日本と、
自分を育ててくれた中国だ。
簡単に「戦争も辞さず」などと言うことがどれほど愚かしいことかは、
もし自分がそうなったらどうかを
ちょっとでも想像したら分かるだろう。
■李(渡辺)達夫さん(70歳)大阪在住
「私は日本というこの美しい祖国が大好きです。
日本に来てから、生活面ではとても良くなりました。でも、精神面では何か
物足りないような感じがしています。
日本人として満州で生まれた私を育ててくれたのは、中国の人々であり、
中国の大地でした。
60年間、中国で生きてきた私は、何と言っていいか分からないほど
中国に感謝しています。
私が自分の全てをかけて熱望するのは、ただ一つ、
『中日永遠友好!』です。」
■西井澄さん(77歳)大阪在住
「1942年5月7日、6歳で父母妹とともに吉林省に渡りました。
政府が土地も馬も農具も全部用意してくれるというので
父が乗り気になり参加を決めたそうです。
父は1945年7月1日、関東軍に召集され、
8月15日から母、私、二人の妹の逃避行生活が始まりました。
当時9歳だった私は、
(どうしてこんなことになってしまったんだろう。
戦争だ。戦争は怖い。戦争は人を殺す。戦争は家族をバラバラにした)
と思いました。」
逃避行途中、生後4か月の下の妹を亡くす。
■石原政子さん
「今でも誰か官僚に聞きたい。
何で私たちを満州へ送り出したのかって。」
役場の人に「満州へ行けばお米もたくさんあるし、作物はだれでもできる」と
何度も勧誘され、一家で満州へ渡ることに。彼の地に着いたのは昭和20年5月26日。
まもなく終戦。開拓団から避難命令が出たその日に日本から来た荷物を
紐解くこともなく逃避行。満州で父母、妹らを亡くす。
■樗沢仁さん
「開拓団の人たちがトラックの窓に手をかけて『乗せてってくれ』って。
それを振り払って行っちゃうんだから。」
終戦の2か月前、10歳のときに父の小部隊のある鞍芬河へ渡る。
ソ連との国境の町であったが、終戦時は軍人家族として最優先で後方へ
逃がしてもらえた。
軍のトラックに乗って避難する道中に見たのは、
何十台と続く軍のトラックが、
逃亡手段を持たない開拓民たちを置き去りにして進む姿だった。
満州で母と妹を亡くす。
*李(渡辺)達夫さん、西井澄さんの話は
帰国者の友文集「帰国者の歩んできた道」より抜粋、
石原政子さん、樗沢仁さんの話は
映画「嗚呼 満蒙開拓団」(羽田澄子演出)チラシより転載。
李(渡辺)さんは彼の地で生まれ、西井さん、石原さんは幼児の頃、
父母に連れられて行った子どもたちだった。
多くは残留孤児となって辛酸をなめつつも中国の大地に根を張り、
養父母に育てられるなどして生きのびた。
彼らが合法的に日本に戻れるようになったきっかけは、
1972年の田中角栄・周恩来による日中国交正常化であったが、
多くの場合、自分が築いて来た生活を捨てて
言葉も分からない祖国であっても、日本に戻ろうと決断をしたのは、
あの文化大革命での大迫害であった。
帰国者たちには愛してやまない祖国が二つある。
父母の故郷日本と、
自分を育ててくれた中国だ。
簡単に「戦争も辞さず」などと言うことがどれほど愚かしいことかは、
もし自分がそうなったらどうかを
ちょっとでも想像したら分かるだろう。
■李(渡辺)達夫さん(70歳)大阪在住
「私は日本というこの美しい祖国が大好きです。
日本に来てから、生活面ではとても良くなりました。でも、精神面では何か
物足りないような感じがしています。
日本人として満州で生まれた私を育ててくれたのは、中国の人々であり、
中国の大地でした。
60年間、中国で生きてきた私は、何と言っていいか分からないほど
中国に感謝しています。
私が自分の全てをかけて熱望するのは、ただ一つ、
『中日永遠友好!』です。」
■西井澄さん(77歳)大阪在住
「1942年5月7日、6歳で父母妹とともに吉林省に渡りました。
政府が土地も馬も農具も全部用意してくれるというので
父が乗り気になり参加を決めたそうです。
父は1945年7月1日、関東軍に召集され、
8月15日から母、私、二人の妹の逃避行生活が始まりました。
当時9歳だった私は、
(どうしてこんなことになってしまったんだろう。
戦争だ。戦争は怖い。戦争は人を殺す。戦争は家族をバラバラにした)
と思いました。」
逃避行途中、生後4か月の下の妹を亡くす。
■石原政子さん
「今でも誰か官僚に聞きたい。
何で私たちを満州へ送り出したのかって。」
役場の人に「満州へ行けばお米もたくさんあるし、作物はだれでもできる」と
何度も勧誘され、一家で満州へ渡ることに。彼の地に着いたのは昭和20年5月26日。
まもなく終戦。開拓団から避難命令が出たその日に日本から来た荷物を
紐解くこともなく逃避行。満州で父母、妹らを亡くす。
■樗沢仁さん
「開拓団の人たちがトラックの窓に手をかけて『乗せてってくれ』って。
それを振り払って行っちゃうんだから。」
終戦の2か月前、10歳のときに父の小部隊のある鞍芬河へ渡る。
ソ連との国境の町であったが、終戦時は軍人家族として最優先で後方へ
逃がしてもらえた。
軍のトラックに乗って避難する道中に見たのは、
何十台と続く軍のトラックが、
逃亡手段を持たない開拓民たちを置き去りにして進む姿だった。
満州で母と妹を亡くす。
*李(渡辺)達夫さん、西井澄さんの話は
帰国者の友文集「帰国者の歩んできた道」より抜粋、
石原政子さん、樗沢仁さんの話は
映画「嗚呼 満蒙開拓団」(羽田澄子演出)チラシより転載。