昨日のブログには、
余立君さんのお母さん(宋老師)の子どもの頃からのお話を聞き書きしました。
娘が大学で日本語学科を選んだとき、お父さん(余さんから見たら祖父)は激怒して、
宋老師に何度も怒鳴ったそうですが、
宋老師はそのことを娘の余立君さんに一言も言わなかったというエピソードは、
余立君さんもこの旅で初めて知ったことでした。
今日は、その娘である余立君さんの話をご紹介します。
私を広東省広州、湖南省張家界や、浙江省西湖・紹興など、
あちこちに連れ出してくれている余立君さんは、
今回、広大な西北旅行のみならず、余さんのお母さんやガイドの馬さんなどとも
引き合わせてくれた張本人です。
---余立君さんの話---
私は子どもの頃、お祖父さんの家に泊まるといつも、テレビで抗日ドラマを見ていました。
中国人民に対して日本軍人はとても残忍なことをしていたので、
そのとき、日本人の印象はとてもよくなかったんです。
中学校では歴史で日本軍が為した罪をさらに具体的に詳しく学びました。
だから、日本人がもっと嫌いになりました。
そして何よりも、祖父母の村は日本軍に侵略された経験があるので、
私は小さい頃からたくさんの生々しい体験談を教えてもらっていたんです。
私が江西財経大学で日本語学科を選択したのは偶然です。
私は外国語が大好きだったのですが、英語にはもう飽きていました。
江財大には英語以外の外国語は日本語しかありませんでしたから、
しかたなく日本語を選んだのです。
私の選択を聞いた祖父ははじめ、
「お前はなぜ、わざわざ敵国語を選んだ?」と怒りました。
私は「戦争のときに、敵国語が分かったら便利ですよ。」
と口答えをしたのですが、納得してくれません。
一年のときは、休みに祖父の家に行くたびに、いつも叱られていました。
でも、私が大学で先生から学んだ日本人のマナーとか、
礼儀など勉強したいろいろなことを伝えると、祖父の態度は少しずつ変わってきました。
ある日、テレビで日中戦争に関するドキュメンタリー番組をしていたのですが、
そのとき私が通訳してあげると、祖父は
「もう、日本語が理解できるのか。すばらしいね!」と褒めてくれました。
祖父は向学心に燃えた子どもでしたが、学齢期は戦争ばかりで、
どんなに学校で勉強したくてもできなかった時代です。
だから、たとえ日本の言語であっても、
一生懸命努力して学んでいる孫は立派だと
お祖父さんは認めてくれたんだと思います。
そして、先生が中日友好のためにずっと努力していることを教えると、祖父は
「まあ、政府は政府、人民は人民だ。」と言うようになりました。
忘れられないのは、先生と旅行したとき、
寝台車の布団を先生がきちんとたたんで片付けていたことです。
普通中国では、誰もそんなことをしないのでそのときはとても感動しました。
日本人の規律正しさを見た思いでした。
大学卒業後、初めて日本に旅行したときのこともよく覚えています。
初めて行ったのは北海道でした。
北海道はどんなに小さな町でもとってもきれいでした。
路上でゴミを見たこともありません。
中国では大都市はともかく、小さい村に行ったら、あちこちゴミだらけです。
北海道では普通の人民の家(民宿)に泊まりましたが、
管理人さんはとても優しくて、果物とかおいしいご馳走を出してくださいました。
札幌以外に美瑛、富良野、函館などに行きましたが、とてもいい経験になりました。
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この話のあと、余立君さんは、
日本人が英語で話しかけると逃げていくので驚いたこと、
でも、日本語で話すと
「わあ、日本語、話せるの!?」と喜んでくれたことなども教えてくれました。
泥足で踏み込んでおきながら、奴隷に対するような尊大な態度をほとんどの人がとっていましたから。
まだまだ目の前で親が殺されたの見ていた人がいるのですから。
その恨みをブルーハートさんの行為でやわらげていった!素晴しいことですね。
国も見習っててほしいと思います。
お隣の国ですもの、中国や韓国となかよくしなくては!!
実態は、そんなに褒めていただけるものでは・・・・・・(笑)。
中国での6年間(その間、1年間は日本に戻っていました)を振り返ると、行き当たりばったりだった自分の姿が思い出されて、冷汗の出る思いです。
2010年、沖縄の言葉『いちゃりば ちょーでー(出会えば もう、きょうだいさ!)」を心に唱え、ワクワクして中国に出発しましたが、そこで出会った多くの人々から、戦争当時の日本が中国人(自分の家族、親戚)にした数々の残忍な仕打ち、そして、改革開放以降、中国にやってきた日本企業の、破廉恥だったり、上から目線だったりの行いなどを知らされ、立ち尽くす思いでした。
また、戦後50年の節目に1995年、当時の村山総理大臣が発表したアジア諸国への謝罪談話が中国の庶民にはほとんど知られていないことにも、呆然としました。
しかし、それとは別に、学生たちをはじめ、直接に知り合った中国人の方々は交流するにつれて必ず、
「日本人も普通の人間なんだと分かった」、
「政治は政治、私たちは政府とは別に民間交流をすることが何より大切」
と言ってくれるのでした。
中国の人々は筋道を追って考え、理に適っていたら率直に認めてくれる人が多いということも分かりました。
私はたかが一人の名もなき庶民ですが、一人分の力を全開して『蟻んこだって、無力じゃない』という思いを友人・知人の皆さんと共有したいと思います。何よりも、私という蟻んこのバックには、無数の平和を愛する友人・知人蟻んこがついてくれているのですから、へこたれても、また勇気が湧いてくるというものです。