毎日がちょっとぼうけん

日本に戻り、晴耕雨読の日々を綴ります

「日本・コリア友情のキャンペーン」 2013年7月10日 No.704

2013-07-10 19:26:39 | その他情報
娘のところに預かってもらっていた留守中の郵便物をチェックしていて、
釜ヶ崎の友達というか先輩のマリ子さんからの
「おとなが育ち会いたい集まり通信No.46 」を見つけた。
もう何十年も続いているこの通信には、
大阪釜ヶ崎で暮らす女性や若者たちの声が載っている。
野宿労働者の越冬支援パトロール活動報告文や、
人として生きる感性を綴った詩、
読者からの便りなどに混じって、
3月末に大阪鶴橋であった、
「日本・コリア友情のキャンペーン」報告文が載っていた。
在特会の鶴橋行動に抵抗するためのキャンペーンということだ。
私が生まれてこの方見聞した中で最も愚かな現象の一つである在特会の、
憎しみを煽り、殺人までをも示唆する活動に対して、
大阪在住の人たちがきちんと反撃していたのが嬉しい。
嬉しいのでブログを読んでくださっているみなさんと分かち合いたい。
---------------

「日本・コリア友情のキャンペーン」

3月31日、連れだって鶴橋に向かう。
鶴橋駅近くの公園に人が続々と集まる。
多数の警官と私服の姿、緊迫している。
「鶴橋大虐殺」を叫ぶ「在日特権を許さない市民の会(在特会)」などが、
鶴橋に来るというので、
抵抗しようと“日本・コリア友情のキャンペーン”の呼びかけがあって、
みんなが集まった。
公園から駅のガード下に歩いていくと、
道路の向こう側に大きな旭日旗や日の丸を掲げて
何十人も在特会が拡声マイクで叫んでいる。
背広を着た男や着物を着た女の人もいた。若い人もいる。
「ゴキブリ」「死ね」「強制連行も従軍慰安婦もなかった、出ていけ」
…とがなり立て、憎悪と暴力の言葉を投げつけている。
ここ、朝鮮市場で働くオモニたちはどんなにか怖いだろう。

私たちは“日本・コリア友情のキャンペーン”の
ポスターやビラを掲げて駅前の歩道を歩いて訴える。
友情のキャンペーンを伝え聞いた様々な多くの人たちが
どんどんやって来て、仲間が増えていく。
赤ちゃんをおんぶして手作りのプラカードを持ってきた人もいる。
韓国の民主化闘争でこうして闘ったという“人間マイク”をやろうと、
リーダーが声を上げる。
「差別!」と言うと、みんなが「反対!」と一緒に声を上げる。
「人権!」「平和!」
「長時間マイクで!」「喋り続けて疲れませんか!」
「休憩しませんか!」「お水でも飲みませんか!」「もう止めませんか!」
リーダーが呼びかける言葉にみんなが唱和する。
そして、それはひとつの大きな肉声となって、在特会に呼びかける。
私たちも思わず笑いながら、繰り返し、精いっぱいの声を上げる。
すばらしいシュプレヒコール。
歩いている人が声をかけてくる。
「何してますか?」
その若い女性はベトナム人だという。
連れの女性に今聞いたことをベトナム語で話していた。
黙って手を差し伸べてビラをもらっていく人もいた。
通りがかった男性が、
「日本人として恥ずかしい。自分も反対したかった」
と、ポスターを受け取って最後まで行動に参加していた。
一人の女の人が、
“友情のキャンペーン”を掲げている女性を見つめて泣いていたという。
嬉しかったんだと思う。
マリ子さんが言う。
「日本人の差別意識の問題。うちらが問われているのよ」
と。閉塞感の中で在特会のような差別と暴力が公然と出てくる
社会の空気があるということが恐ろしいと思う。
でも、かけつけて抵抗の声をあげる人たちもいる。
行動する、そんな仲間がほんとに大勢集まったことが嬉しかった。
(エノキ)


付記:当日のビラの文章

日本にはたくさんの在日コリアンの人たちが暮らしています。
そして、たくさんの外国人の人たちが暮らしています。
そして、たくさんの「ちがい」のある人たちが暮らしています。

その人たちは、いろんな「歴史」を持っています。
その人たちは、いろんな「ちがい」を持っています。
その人たちは、いろんな「つながり」を持っています。

私たちは、いろんな「歴史」を尊重したいと思います。
私たちは、いろんな「ちがい」を尊重したいと思います。
私たちは、いろんな「つながり」を尊重したいと思います。
そして、
差別や排除のない、お互いを尊重する「共生社会」を、
日本とコリア、ちがいのある人たちが友情を育める
そんな社会を望んでいます。

『おとなが育ち会いたい集まり通信46号』より
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「日本は選挙ムード」 2013年7月9日(火)No.703

2013-07-09 15:41:11 | その他情報
日本に戻ったら即、ラジオをつけっぱなしにする。
思いがけない歌が耳に飛び込んでくるのが何よりもの楽しみなのだ。
昨夜はNHKラジオつけっぱなしで扇風機の前でバッタリ倒れて朝まで寝た。
時々、夢うつつにラジオ深夜便のありがたいお話やら聞こえてきて
(なるほど)と感じ入ったりしたわりには、朝になると何の話だったか
一つも覚えていない。
今日の最大の収穫はちあきなおみの渋い声が聞こえてきたことだ。

その少し前には、ラジオの政見放送で
日本維新の会の石原慎太郎と橋下徹がお互いをさんざん褒めちぎりったり、
民主党の海江田何某がぼうっとした特徴のない声でヘンなこと言ったり…。
そうか、日本は参議院選が今月21日に迫っているのだった。

しかし、両党とも与党自民党をあーやこーや批判しているようだが、
全く何をか言わん。
維新の会と自民党はほとんど同じ主張、同じ基盤、同じ方向に向かっている。
維新の会が躍進したら自民党は力を得て憲法は必ず改悪されるだろう。

で、中国では見られないtwitterを久しぶりに見てみると、
こんなの見つけた。
こういう風にどの政党の誰が何を主張しているのか
ていねいに、油断なく、見聞きすれば、
政治家たちが嘘八百喋りまくりなのがよ~く分かる。
イシカワ @ishikawakz さんの記事をここに貼り付け。
在中国の日本の皆さん、懐かしいtwitterですよ~)^o^(
―――――――――――――――

「再稼働容認なのに再稼働批判!?」

選挙序盤から、選挙の公正を害し有権者をあざむく発言が
民主、みんなの党から繰り返されています。

民主・海江田代表
 民主党の海江田万里代表は5日、
北海道函館市内で小川勝也選挙区候補を応援し、
「特に北海道は、多くの生活をこのTPP(環太平洋連携協定)によって
破壊される可能性がある。暮らしが破壊されるだけではない、
町が破壊され、故郷が破壊される可能性がある」などと述べました。
横付けされた宣伝カーには「ストップ!TPP」の文字が大書されていました。
(写真)


農業者をはじめ広範な国民のTPP反対の声、
特に北海道では「壊滅的打撃を受ける」として
オール北海道の「反対」世論が形成されてきましたが、
それを無視して、交渉参加を推進してきたのが民主党です
「今さら何を言っているのか!」と、
誰もが怒りを覚える欺まんです。

しかも海江田氏は、「反対ポーズ」の一方で、
「しっかりと情報公開させて、
国民の利益にならないのであれば交渉から離脱するべき」と言明。
結局、自民党安倍政権と同じスタンスしか示せませんでした。


みんな・渡辺代表
「原発はもういらない。原発の再稼働の新基準を作ったが、
福島の事故がまったく反映されていない。
いい加減な基準で再稼働を認めていくのはとんでもない」

 こう述べているのはみんなの党の渡辺喜美代表です(6日、新宿駅前)。
しかし、公約では
「原子力規制委員会が定める世界標準の新基準に適合しない限り原発の再稼働を認めない」として、
「新基準に適合すれば再稼働を認める」立場を表明しています。
渡辺代表は憲法改定でも、
96条の改憲発議の要件緩和に賛成しているのに
「民主主義を破壊する憲法改正は絶対に認めない」(4日、巣鴨)
などと叫んでいます。

 自共対決の政治構図が明確になるなか、
もともと自民党政治の補完勢力であるこれらの政党が、
選挙目当てに「対決ポーズ」を演出しても、
有権者の不信と批判を深めるだけです。

http://www.jcp.or.jp/akahata/aik13/2013-07-07/2013070702_05_1.html
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「大阪に帰ってきた」 2013年7月9日(火) No.702

2013-07-09 12:24:44 | 日記
中國東方航空(China Eastern Airline)と私の相性は良くて、
今までとんでもなく長時間遅延したこともなく、
南昌では一番安心して 利用できる航空会社だという印象がある。
昨日はそれを再確認できた。
さらに(なぜ、今まで一度もこうできなかったのか)と思ったのが、
国内便(南昌-上海)と国際便(上海-大阪)の両方を東方航空にすると、
重い、重いスーツケースを上海で一度引き取る必要がなく、
最終地関空で受け取ることができるのだ。
いつも格安便ばかり利用しているので、航空会社まで選べない。
あの春秋エアラインとか、
名前は忘れた(て言うか記憶したくない)急に飛ぶのを止める飛行機会社とかと
セットにされて苦節3年間を耐えてきたが、とうとうこんな便利なセットを
購入できたのだ。

そーゆーわけで、朝6時半、オフィスが手配してくれたバンに乗り、
20分で昌北空港に到着、午前8時ちょうどに離陸、
予定ぴったりの9時20分に上海浦東空港に到着した(完璧)。
手荷物受取の手間なく、搭乗手続きの必要もなく
(昌北で乗り換え便も同時に手続していたので)、
スイスイ出国手続きに向かった。
月曜日なので、混んでない!
これは重要デス。この前、長蛇の列にめっちゃ焦って、係員に訴えることで
何とか間に合ったことがあるので。
ここも完璧!と思ったら、ボディ・チェックでちょっと引き留められましたね。
小さいキャリーバッグに冷蔵庫に残っていた卵を4個茹でて、
塩を一緒に入れて携帯していたのだが、
その塩が反応したのだった。

驚いたことに、その時の係官がたいへん親切だった。
まず、「中国話、可以嗎?」と聞かれ、「我听不懂」と言うと、
「日本語?」と日本語で聞いてきた。
私が「ん、or English is O.K.」と応えると
英語での会話になって、ゆで卵用の塩であることを説明したら、
彼はニコッと笑ってゆで卵も塩も戻してくれたのだ!
数年前の「いつもムッツリ怒っている検査官」のイメージはなかった。
上海浦東空港は全世界から外国人が訪れる国際ハブ空港である。
職員は国際社会に対する中国代表としての誇りを持ち、
インターナショナルなマナーを身に着けつつあるのだろう。
ここにも激変する中国の片鱗が見える。

日本に戻って驚いたこともある。
いつもより順調に早く着いたので、気分よく大阪駅行きシャトルバスに乗り込んだ。
ちょうど夕方近いこと、月曜日であることなどで道路が混んでいると
ドライバーから説明があり、予定より多少遅れて到着することが予想されるので、
それを了承の上で乗車してほしい、とも言われた。
なるほど、最近は文句を言う人が多くなってきたのかなと感じたが、
驚いたのはそのことではない。
予定の時間が、
大阪駅前新阪急ホテルまで58分
ハービス大阪まで67分というその数字を聞いたときだ。
そこまで細かく言うのか!
宿舎から南昌市内へ出かけるとき、
バス停で待っても待っても703バスが来ず、
ようやく来たと思ったら、2台続いて来たことを思い出して
この違いに笑いそうになった。
ある日は1時間で市内に着き、別の日は30分で着く。
誰も、文句を言わない。
慣れたら腹も立たない。
しかたがないのだ。
その感覚が次第に身に付きつつある私にとって、
58分とか67分とか聞くと、
(そこまで正確にしなければならないのか…)と複雑な気持ちになる。
その正確さは何によって保障されるのだろう。
それを実現するために、何が消費されるのだろう。
ちょっとやりすぎじゃない?

予定より2分遅れて大阪駅前に着いたバスから降りて、
半年間楽しみにしていたカスケードのクリームパンを買って帰った。
マンションの部屋の中は2月に出て行ったときのまま、
電気カーペットとコタツがリビングにでんと座して私を出迎えたのだった。
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「帰国の前の日」 2013年7月7日(日)No.701

2013-07-07 18:37:28 | 日記
夏休みのちょっとした帰国とは言え、
いろいろ準備があります。
蒸し蒸しする中、お世話になった方にご挨拶するため市内に出かけ、
さらに接待され、
恐縮しつつランチをいただき、
恐縮しつつ残りをテイクアウトでもらってきました。

右は私の大好きなヨモギの肉まんであります。
私が常日頃、ヨモギが好きだ、ヨモギが好きだ、と言いふらしていたのが、
こうした好結果となって戻ってきたのです。

左はなんでしょう。
よく見たら鳥の頭が見えますね。
これは鳩だそうです。
小さい鶏のようなものです。
日本のレストランには鳩料理はないのかと聞かれ、
あるかも知れないが、私は見たことがないと答えました。
やっぱ、ないかな?(^O^)
鳩の糞公害などを考えたら、
鳩を食べてもいいかもしれない、味も鶏とそんなに変わらないんだし。
日本の公園は鳩だらけだし。

そこまで考えて、やはり日本で鳩を食べるのは、
飢え死にする危機が迫ったときにした方がいいかと思い返しました。
食べられるからと言って、
なんでもかんでも食べていいわけでもない。
今まで食べる習慣がなかった新たな分野のものに手を付ける際には、
本当にこれを食べる必要があるのかどうか考え、
食べなければならないという結論に達した時も、
できるだけ自制的に、
(あなたのお命、頂戴いたします)といった気持ちが必要ですね。


下は昨日の写真ですが、布団もちゃんと干しました。
日本から戻った時にフワフワでお出迎えしてもらわなくちゃね。
この布団は前の人が置いて出て行ったものを、
私が狭苦しいシャワー室で踏み踏みして洗い、大切に使っているものです。
夏よりも、泣くほど寒い冬に重宝します。
ということで後は、娘に頼まれたティエンメンジャンを買えば完璧!
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「ある日本軍兵士たちの責任の取り方と、日本の政治家たちのあまりの違い」 2013年7月6日(土)No.700

2013-07-06 20:27:36 | 中日(日中)関係
今からここに書く事柄は、日本でも中国でもあまり知られていないと思う。
つい先日、江西省日中友好の歴史の生き字引である博堅先生から直にお聞きしたことだ。

日本では戦後「戦友会」という組織がたくさん作られた。
私も聞いたことがないわけではなかったが
その名称から、
(戦争が終わってからも“貴様と俺~と~は~”など軍歌を歌って、
戦争当時を懐かしんでいるような団体)という
勝手な印象を持ち、それを確かめようともせず長年放置してきた。
自分のその怠慢と傲慢を恥じる。

大阪府吹田市の戦友会「椿会」(資料1)の会員約130名が1986年、南昌を訪れた。
その会の前身は日中戦争のとき、
江西省、湖北省各地を作戦地域として戦闘を展開した日本軍部隊だという。
博堅先生はその会メンバーがが南昌を訪問した時、
同行した17人の日本語通訳の1人だった。
博堅先生の記憶によると、
会長はバンバさんという野戦病院の院長で少将だった人、
副会長は井上豊治さんという奈良県の人。
他にも、西村完さん、有田正男さん、島田さんという名前の人がいた。

その椿会の人たちは何をしに南昌に来たのか。
そのメンバーは、最も若い人でも現在健在であれば103歳ぐらいだという。
’86年当時はその人だと76歳ということになる。
皆、大変高齢になってからの訪問だった。
彼らは、博堅先生ら通訳を伴い、かつて戦闘作戦地だった
武漢、宜春、萍郷、南昌新建県・安義県・永修県など各地を訪れ、
戦争時に自分たちがした行為を謝罪したのだった。
博堅先生はその時の様子をこう語る。

「南昌新建県のある村に行ったとき、
井上先生(註:博堅先生は誰にでも『先生』を付ける。『さん』という意味だそうだ)が
村長に向かってこう言いました。
『私たちは罪人です。私たちの部隊は、新建県のたくさんの人達を
殺しました。本当に申し訳ございません。これからは、日中友好のために尽くしたいと
思います。』と。
村長がどう答えたかははっきり覚えていませんが、うん、うんと頷いて握手し、
二人とも涙を流していました。」


椿会の人たちは何しに南昌に来たのか。
まさか観光気分で浮かれて来たのじゃないのか。
話を聞く前に湧いたその疑念は、私の無知と傲慢さによるものだった。
本当に恥ずかしい。
彼らは自分が死ぬ前に、きちんと、自分たちのしたことを謝りに来たのだ。
戦闘作戦を命令されて実際に担ったのは、
主に、日本全国からかき集められた農民やお店屋さんやサラリーマンやらだった。
「兵隊に取られる」という言葉があるように、
一般人は、喜んで兵士になったのではない。
国の命令に従ったのだ。
軍隊に入れば、「一人前の兵隊にする」という名目で
たいへんな虐めに遭った。
その中で、生き延びるために、次第にまともな神経を麻痺させ、
残虐な殺戮をも平気でするようになる。
ドキュメンタリー映画「蟻の兵隊」で、
ある元兵士が、自分がやったことの資料を見せられ、
「おれが、それをやったのか…」と絶句していたシーンがあった。
忘れなければ、生きていけないようなことをしてしまった元兵士たち。
それでも、忘れることなどできないし、忘れてはならない。
いくら国家の戦争政策だったとは言え、自分がそれに手を染めたことの
責任は逃れようもない。
そうした思いの謝罪の旅だったのだろう。

日本では、最近、
日本的に言えば侵略はなかったかのような言辞を弄した首相がいた。
(まだ首相をやっている)
彼はさらに、その発言についてアメリカからちょっと厳しく言われたら
「侵略していないとはいっていない」
と言い逃れをした。
昨年早早に「南京大虐殺はなかった」と根拠もなく言った名古屋市長といい、
歴史を改ざんしようとしている政治家の多いこと、多いこと。
こんなことがなぜまかり通る日本になったのか。

近代から今まで日本がアジアの国々に対して、
具体的に何をしたのかを嘘偽りなく調べ、、
実際に日本の政策に現場で関与した人々の証言を、証拠として真摯に認め、
謝るべきはきちんと謝り、正すべきは正すという基本的なことが
なぜできないのか。
こんなことでは、日本の子どもたちは、これからもずっと、
アジアの国々に対して肩身の狭い思いをし続けなければならないのだ。
1995年の村山談話で、
(日本もようやくきちんと謝罪した。
これでアジアの人たちに顔をあげて挨拶ができる)
と、ホッとしたのもつかの間、
雪崩をうって靖国参拝をしたりする政治家たちや、
よりもよって「731」番号の自衛隊機内でホクホクと手を振る
日本の総理大臣が出現したりしている(資料2)この現象を、
江西省に謝罪に来た日本軍元兵士たちは、
もし、今も生きていたらどう思うだろう。


(資料1)
戦友会研究会(Research on Japanese "Sen'yukai")の戦友会データベース
http://www.senyuken.jp/database/search/

戦友会名:椿会
所在地:大阪府
部隊名:歩兵第34師団衛生隊

*「大阪吹田・椿会」で検索するとこの椿会が出てきた。
この椿会が1986年に江西省などを訪問した団体の可能性が大だが、
(「衛生隊」がたくさん人を殺したりしたんだろうか?)という疑問も湧く。
「戦友会」についての資料は唯一この戦友会研究会のものしか分からなかった。
どなたかいい資料をご存知ないだろうか。


(資料2)
安部総理大臣の本物の写真(合成じゃない

4月12日、安倍晋三首相は、宮城県松島基地の『ブルーインパルス』の操縦席に座り得意満面、親指を立てるポーズで写真撮影に応じた。(逝きし世の面影さんブログより) http://blog.goo.ne.jp/syokunin-2008/e/e0516e05dd33a346fe1136b7669ba9a8


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「その後のヨモギ(蓬)」 2013年7月4日(木)No.699

2013-07-04 21:59:34 | その他情報
端午節の6月12日に宿舎のそばに生えていたヨモギとヒメジョオンのうち、
ヒメジョオンはとっくに枯れ果てた。
ヨモギは下の写真の通り、ご健在である。
葉っぱに触ると、よもぎの爽やかなスウッとする香りがする。


なぜちぎられて20日以上経つのに、
いつまでも元気なのかと言うと、ほらね。


本当にヨモギはエライ。
生命の力がすごい。
これを宿舎の陰に移植して何とかここでヨモギを増やしたいものだ。
来年の春には、宿舎の周りが神々しいいヨモギで包まれるように
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「なぜ『北国の春』を聞くとイライラするのか」 2013年7月3日(水) No.698

2013-07-03 14:10:38 | 
日本では何十年も聞いていなかった曲を、ここ南昌でよく聞く。
中国の人たちが日本の歌を熱唱してくれているのだ。
改革開放以降、雪崩をうって入ってきた外国文化の先頭を切ったのが
当時の日本の歌だ。
例えば「昴」「星影のワルツ」「北国の春」など・・・。


歌名人の博堅先生はこれらの歌が好きで、何度も歌ってくださった。
「日本の歌は感情が深い。すばらしい」
とおっしゃる。褒めてくださっているのだが、
実のところ、私は日本にいたとき何が嫌いと言って
千昌夫の歌(「星影のワルツ」「北国の春」とか)ほど
嫌いなものはなかったのだった。
声が嫌だとか、顔がキライとかじゃない。
歌が嫌だった。

つい最近、博堅先生が新たに「う~ん、感情が深いです。」
と感心して歌ってくださったのは、またまた千昌夫の「夕焼け雲」(|||▽||| )。
(ちなみに、博堅先生は日本の歌手を「千昌夫先生」「美空先生」「谷村先生」と言う。
「谷村先生」には直接会ったことがあり、「美空先生」は横浜でお墓参りしたそうだ)
博堅先生は「千昌夫先生は声があまり良くないねえ。しかし、深い。」
とおっしゃる。何が深いか。例えば、
「夕焼け雲」では「誓いのあとの せつなさに~♪」、
「帰れない 帰りたいけど 帰れない♪」
など、どうも第一に歌詞に感心なさっているのだ。

そんなに褒めているのに、
「イヤ、私はそれ嫌いです」
などと言えるものではない。
従って、心中、葛藤が渦巻き、日々悶々たる気持ちである。
今日は、なぜ日本人の自分が「北国の春」やら聞くと心がシラ~っとしてしまうのか、
私は国賊・売国奴・人でなしなのだろうか。
そこんとこをちょいと考えてみようと思う。

演歌の、いわゆるコブシの効いた歌い方も、あまり好きではない。
しかし、都はるみの「三日遅れの便りを乗せて~、ふねえ~が~~~♪」は、
(おお、いいねえ!)と感じる。
上野発の夜行列車降りた時から~~♪」(石川さゆり)は、大好きな歌だ。
だから、演歌だから嫌いな訳でもない。
どうも、その歌の醸し出す全体の雰囲気がイヤなのだ。
全体の雰囲気に重要な役割を果たすのは、メロディと歌詞である。

で、今日はそのうちの歌詞に照準を当て、
さらにキーワードとして「帰る」(帰らない・帰りたい・帰れない)を選び、
その言葉が歌詞に登場する次の3曲を比較して全体の雰囲気チェックを試みることにした。

1「北国の春」(千昌夫歌・いではく作詞・遠藤実作曲、1977年発表)
2「夕焼け雲」(千昌夫歌・横井宏作詞・一代のぼる作曲、1976年発表)
3「帰りたい帰れない」(加藤登紀子歌・作詞・作曲、1970年発表)

〈3曲とも歌詞は下に掲載〉

3曲に共通するのは、故郷を離れた者(男性)の言葉として詞が書かれていることだ。
1「北国の春」は「田舎」から「都会」に就職した若者、
2「夕焼け雲」は「杏の幹・堀の水」がある「街」からそれ以外のところに出た男、
3「帰りたい帰れない」は田舎か街かは分からないが、
  「家」から離れ、「人ごみ」に呑まれる都市に住んでいる僕。

1、2と3で違うことの一つに、
1、2の作詞家は男性、3は「僕」と書いてはいても、
歌詞を作ったのは加藤登紀子という女性だということがある。
1、2は自分が出てきた故郷に
「おふくろ」「あの娘」「(誓った)黒髪(の女性)」を残している。
この「おふくろ」「あの娘」という言葉は、
男性の使う言葉であるが、これは歌謡曲専門用語とでも言おうか、
この作品が発表された当時、一般社会では
こんな言葉を使っている若者はあまりいなかったと思う。
今では、ほぼ90%いないだろう。
これは内容以前の、些細なイラッだ。

1は(5年も経ったんだから、ボチボチ帰ろかな)といった、
出稼ぎ労働者的ムードを滲ませている。
おそらくだいぶお金も溜まったのであろう。「帰ろかな」という言葉には、
(帰りたいけど帰れない)という切なさは微塵も感じられない。
この歌の歌詞の魅力は、
冒頭に誰もが懐かしむ故郷の自然を言葉でバーンと出していることだ。
初めて「しらかば~!」と叫ばれた時点では、
私も決して(嫌な歌)と思わなかった(ような気がする)。

この曲は、自然豊かな(田舎)で家族が待っている(都会で働く若者)が、
故郷の自然、家族を懐かしみ、故郷へUターンすることを
射程に入れ始めたという内容だろうか。
2や3にある痛いほどの孤独感は、1ではほぼ感じられない。
結論を急ぐと、私のイライラは、
(帰るところなんてどこにもないんだ)という私自身の感覚に対して、
外側からベッタリと油を塗られ、窒息させられるような違和感が、
この歌の基底にあることだ。
私は、3の「帰りたい帰れない」が巷に流れていたころ、
ちょうど故郷の北海道を離れ、京都で暮らし始めた。
寺山修二の影響がちょっとあったかして、
「母さん、さよなら」と、自分としては精神的自立のための家出だった。
1や2の若者(男性)のように、
お金を貯め、あるいは成功した暁には必ず故郷に帰還するという意志はなかった。
糸の切れた凧だった。
2の男性は、なかなか誓いが果たせないので、気の毒にも帰れないのだが、
私は、帰るための目標も誓いも初めからなく、
ただ世界が何であるのか、
自分が何であるのか、
それを知りたいだけで家を出てしまった。
これは、永久の家出であると自分で思う。
「流浪の民」を自認している私としては、
やはり、1、2より、3の「帰りたい帰れない」を好んで歌いたい。
もう、母も5年前に死んでしまった。
よけいに、帰るところがなくなってしまった。

--------------------
「北国の春」
 作詞:いではく 作曲:遠藤実  歌:千昌夫
 いではく(本名・井出 博正(いで ひろまさ)、1941年11月22日 - )は、
長野県南牧村海尻出身の作詞家。早稲田大学商学部卒業。(wikipediaより)

白樺 青空 南風
コブシ咲くあの丘 北国の ああ北国の春
季節が都会では分からないだろと
届いたおふくろの 小さな包み
あのふるさとへ 帰ろかな 帰ろかな

雪解け せせらぎ 丸木橋
落葉松の芽が吹く 北国の ああ北国の春
好きだとおたがいに 言い出せないまま
別れてもう五年 あの娘はどうしてる
あのふるさとへ 帰ろかな 帰ろかな

山吹 朝霧 水車小屋
わらべ歌聞こえる 北国の ああ北国の春
兄きも親父似で 無口な二人が
たまには酒でも 飲んでるだろうか
あのふるさとへ 帰ろかな 帰ろかな


「夕焼け雲」   作詞:横井宏  作曲:一代のぼる  歌:千昌夫
 横井宏:1926年(大正15年)10月12日- 東京府東京市四谷区出身。
1943年(昭和18年)、帝京商業学校卒業。1945年(昭和20年)5月25日の東京大空襲で自宅が全焼し罹災する。同年6月召集され入営。茨城県で初年兵として沿岸防備隊の任務に就く。
終戦と共に軍隊から復員したものの、敗戦のどさくさで帰る家を失くし、知人のいた長野県下諏訪町に家族で転居。  1946年(昭和21年)、上京と共に、作詞家:藤浦洸に師事するようになる。(wikipediaより)

夕焼け雲に誘われて  別れの橋を超えてきた
帰らない  花が咲くまで 帰らない 帰らない
誓いのあとの切なさが あんずの幹に残る街

二人の家の白壁が 並んで浮かぶ堀の水
忘れない どこへ行っても 忘れない 忘れない
小指で梳かす黒髪の 香りに甘く揺れた街

あれから春がまた秋が 流れて今は遠い街
帰れない 帰りたいけど 帰れない 帰れない
夕焼け雲のその下で  一人の酒にしのぶ街



「帰りたい帰れない」
作詞/作曲 加藤登紀子1943.12.27旧満州ハルビン生まれ この曲は彼女が26歳の時の作品

淋しかったら 帰っておいでと
手紙をくれた 母さん元気
帰りたい帰れない 
帰りたい帰れない
もしも手紙を書きたくなっても
僕は書かない 母さん

呼んでも答えぬ 人波にもまれて
まいごの子犬は ひとりでないた
帰りたい帰れない 
帰りたい帰れない



破れたコートの ポケットにいつも
リンゴの花の 想い出を入れて
帰りたい帰れない 
帰りたい帰れない
一人ぼっちが つらくなっても
僕は泣かない 母さん

春になの花 夏には祭り
秋の三日月 木枯らしの冬に
帰りたい帰れない 
帰りたい帰れない

帰りたい帰れない 
帰りたい帰れない
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「☆TOKIKO NOW ---加藤登紀子の一週間」 2013年7月2日(月)No.697

2013-07-02 19:45:42 | その他情報

私が言われて嬉しい言葉の一つに、
歌をうたったとき、「加藤登紀子に声似てるね」と言われるのがある。
めったに言ってもらえないが・・・(ーー;)
加藤登紀子のライブはたった一度しか行っていない。
まだ十代だった頃、京都会館第2ホールであった
「加藤登紀子&浅川マキ ジョイント・コンサート」
である。浅川マキが好きで行ったのだが、
そこでおトキさんを我が身内として受け入れた。
しかし、それっきりだ。
「ほろ酔いコンサート」にいつか行こうと思いながら何十年も経ってしまった。


加藤登紀子の☆TOKIKO NOW --- 2013.7.1全面掲載
Tokiko's Barの三回目、7月3日、
堀江貴文さんをゲスト
に新宿の「どん底」からUstで夕方6時から生中継
いよいよ迫ってきました。

1972年がキーワード
ホリエモンの誕生と、加藤登紀子の獄中結婚が同じ年。
戦争末期に生まれた登紀子と、
高度経済成長期に生まれたホリエモンは対象的な生き方をしているが、
根本的には「日本はこのままじゃいけないよね」の思いが、どこかつながっている!
これからの日本について、生きるビジョンを徹底的に語り合いたいと、
この対談の企画は成立した。
さて、どんな結果になるのか、注目していてください!
今週の登紀子はアンダーグランドな動きの一週間になりそう。

月曜日は、喜多見と狛江の小さな小さな映画祭!の後夜祭に参加。
つまり映画祭の特別上映で、映画を三本一緒に見よう、ということです。
13時15分から「あしたが消える」、
加藤登紀子の「原発ジプシー」が挿入されています。
15時からは「極私的エロス」、
この映画にも加藤登紀子の書き下ろし曲が、挿入されています。
17時からは「車椅子のジョディー」、
パレスチナを取り続けた高橋美香さんの短編。
興味のある方、ぜひ来て下さい。
住所:狛江市岩戸北4-10-7-2F島田歯科2階。


7月4日には千葉県鴨川市で「福島 六カ所 未来への伝言」上映会。
この作品にも加藤登紀子の歌が2曲挿入されています。
夕方6時半から市役所の2階です。


週末の土曜日(6日)は長野県上田市の「無言館」でライブ。
戦没画学生の絵をバックに歌います。
日曜日は敬愛する映画監督、岩佐寿弥さんのお別れ会。
斬新な映画創り、ドキュメンタリストとしての深くてあったかな視線、
一緒に仕事できて本当に幸せでした!
奇しくもこの一週間は彼を送る思いにふさわしい、
私の活動の表にはなかなか出てこないけど大切な仕事の日々になりました。

あ、それから、先週の水曜日にNHKBSプレミアムで放送した
ポーランドのドキュメンタリー「旅のチカラ」は
7月4日朝8時から9時まで再放送
になります。
先週見られなかった方は是非見てください。
岩佐さんにも見て欲しかった!
「今日は帰れない」というパルチザンの歌と私の深い縁に震える思いです。

この7月26日のオーチャードホールで歌う
エディット・ピアフの意味も全く違って来ました。
コンサートに向かって、さらに切り込んで行きます。
楽しみにしていてください!
Tokiko
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「南昌高松中日友好会館に行ってきた」2013年7月1日(月)No.696

2013-07-01 20:45:13 | 中国事情
昨日、6月30日(日)初めて南昌高松中日友好会館に行ってきた。
小西両先生の後任でいらっしゃった筒井百合子先生への表敬訪問である。
て言うか、
博堅先生の水戸黄門様にお供する助さん・格さん、
あるいはさらにその手下みたいな役どころかと。
とにかく、一度はその有名な会館を訪れてみたかったので
博堅先生からのお誘いは嬉しい機会だった。

朝、9時に宿舎前から703バスに乗って市内に向かったところ、
約束の時刻より1時間も早く市内に着いてしまった。
(いっつも渋滞なのに~(ーー;))
涼しいウォルマートで時間を潰そうと店に入ったまでは良かったが、
人の多いこと、多いこと・・・。
博堅先生のお宅についたときは既にくたびれ切っていた。

陶さんという人の車で4人、青山湖近くの会館へ向かった。
またまた渋滞なく15分で着いた。
南昌市内をスイスイ移動なんてめったにあるもんじゃない。
堂々と立つビルディングの名前にきっちり「南昌高松中日友好会館」の文字が。
昨秋9月~10月の時期にはこの看板も隠され、
何か全く別の名前にして難を逃れていたと聞く。
香川県高松市から3ヶ月ごとに派遣される日本語講師ボランティア事業は
2001年に始まったというから、もう12年続いている。
ボランティアの多くは退職されて元気いっぱいの60代の方々のようだ。
「日本の元気は60代にあり!」を実感する。
今回いらっしゃった筒井百合子さんもまた、爽やかでお元気な退職組だ。
彼女について今日の四国新聞社ネット版に記事があった。
以下転載

中国・南昌市派遣の日本語講師が高松市長表敬
2013/06/27 09:41

 日本語講座の講師として香川県高松市の友好都市、中国・南昌市に派遣される筒井百合子さん(62)=高松市牟礼町=が26日、市役所に大西市長を訪ね、活動への抱負を語った=写真=。

講座は南昌市に高松市が整備した高松・南昌友好会館で開かれており、
高松市日中友好協会が2001年からボランティア講師を派遣している。

筒井さんは27日に現地入りし、9月23日までの約3カ月間、
南昌市民らに日本語を指導する予定。
筒井さんは「先輩方が築いた歴史を引き継ぎ、
次にしっかりとバトンタッチできるよう努めたい」と語り、
大西市長は
「日中関係は厳しい状況にあるが、体に気を付けて頑張ってほしい」と激励した。
http://www.shikoku-np.co.jp/kagawa_news/locality/20130627000178


筒井先生から、
(日本人が中国に行ったら殴られるのでは?)と、まだ心配している人がいると聞いた。
やっぱり現場との感覚のズレは大きいものだ。
南昌に限ってそんなこと、もはやない。
もし暴力事件に巻き込まれるとすれば、日本国内と同程度の可能性である。
最近、バスの中で楼さんと話していたとき、
傍に座っていたヒゲモジャの実に日焼けした男性が、
「日本語喋っているね。日本人か」
と急に尋ねてきた(中国語で)。
「すごいですね。日本語だということがどうして分かったんですか」
と聞くと(日本語で)、
「仕事で日本語を聞くことがあるから」(中国語)
とニコニコしていた。
つまり、楼さんの通訳で知らないおじちゃんと会話したわけです(^O^)。
一番警戒するタクシー内でも、最近感じの悪い対応には遭っていない。

さて、昨日は会館内のレストランでのランチの後、
筒井先生が抹茶をたててくださった。
道具やお菓子を高松から持参してくださったものだ。
こういうボランティアの出し惜しみしない行動・心配りが、
どれほどそれに接した中国の人たちの心を温かくすることか。
しかし、やはり中国と日本の違いもあった。
お茶をいただくとき、
日本人の私は自然に動作がゆっくり、丁寧になるが、
他の中国の方々は、逆で、落ち着かないせいもあってか
お菓子も瞬時にして食べ、お茶もてきぱきサッサと飲み終える。
日本の茶道600年の歴史は、
私のような日本の地の果てで暮らしていた者にも、
どこか影響を与えていたのを改めて感じた。
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