11月14日(金)~16日(日)は『堺秋季・文化財特別公開』の
期間でした。もう1回あります。
まず、15日の午後に三国ヶ丘駅前から出ているループバスに乗車。
(バスの中で観光ボランティアの方の解説もあり、お話も上手い。
そして、無料なんです!!)
それから、行きたい寺社などの近くにバス停があるので、とても便利。
最初に、蘇鉄で有名な『妙国寺』へ。

(妙国寺についての解説が。)
ここでも観光ボランティアの方が、
『織田信長は、その権力を以って、天正7年(1579年)、この妙国寺の蘇鉄を安土城に
移植させました。あるとき、夜更けの安土城で一人、天下を獲る想を練っていた信長は
庭先で妙な声を聞き、森蘭丸に探らせたところ、庭の蘇鉄が「堺妙國寺に帰ろう、帰ろう」と
つぶやいていた。この怪しげな声に、信長は激怒し士卒に命じ蘇鉄の切り倒しを命じた。
しかし家来が斧で蘇鉄を切りつけたところ、みな血を吐いて倒れ、さしもの信長も
たたりを怖れ即座に妙國寺に返還した。』
と蘇鉄と信長のいわれについて話してくれました。

(立派な蘇鉄もみえます。)
また、慶応4年(1868年)の堺事件の土佐十一烈士切腹の地としても知られ、
沢山の堺事件の資料を見ることができました。
次に『山口家住宅』へ。

(山口家住宅の公開も。)
山口家住宅は慶長20年(1615年)、大坂夏の陣の直後に建てられた、
国内でも現存する数少ない江戸初期の町家のひとつです。
江戸時代には「京の着倒れ大坂の食い倒れ」とともに、「堺の建て倒れ」と
例えられたように、堺衆は建物に贅を凝らしたといわれています。
立派な梁や廊下の楠の1枚板は貴重なものだ。との解説がありました。

(面白い現代陶芸家の作品が。)

(この町家に合う作品も。)
古い家屋ですが、所々に現代陶芸家の作品が置かれていて、ミスマッチが
妙な雰囲気を醸し出していました。

(江戸時代の庄屋屋敷だったそうです。)
その後、本願寺堺別院と覚応寺に立ち寄り、『与謝野晶子の歌碑』を
鑑賞して帰路に着きました。
文化度の高い(?笑い?)一日を過ごすことができて大満足でしたぁ~♪♪♪
期間でした。もう1回あります。
まず、15日の午後に三国ヶ丘駅前から出ているループバスに乗車。
(バスの中で観光ボランティアの方の解説もあり、お話も上手い。
そして、無料なんです!!)
それから、行きたい寺社などの近くにバス停があるので、とても便利。
最初に、蘇鉄で有名な『妙国寺』へ。

(妙国寺についての解説が。)
ここでも観光ボランティアの方が、
『織田信長は、その権力を以って、天正7年(1579年)、この妙国寺の蘇鉄を安土城に
移植させました。あるとき、夜更けの安土城で一人、天下を獲る想を練っていた信長は
庭先で妙な声を聞き、森蘭丸に探らせたところ、庭の蘇鉄が「堺妙國寺に帰ろう、帰ろう」と
つぶやいていた。この怪しげな声に、信長は激怒し士卒に命じ蘇鉄の切り倒しを命じた。
しかし家来が斧で蘇鉄を切りつけたところ、みな血を吐いて倒れ、さしもの信長も
たたりを怖れ即座に妙國寺に返還した。』
と蘇鉄と信長のいわれについて話してくれました。

(立派な蘇鉄もみえます。)
また、慶応4年(1868年)の堺事件の土佐十一烈士切腹の地としても知られ、
沢山の堺事件の資料を見ることができました。
次に『山口家住宅』へ。

(山口家住宅の公開も。)
山口家住宅は慶長20年(1615年)、大坂夏の陣の直後に建てられた、
国内でも現存する数少ない江戸初期の町家のひとつです。
江戸時代には「京の着倒れ大坂の食い倒れ」とともに、「堺の建て倒れ」と
例えられたように、堺衆は建物に贅を凝らしたといわれています。
立派な梁や廊下の楠の1枚板は貴重なものだ。との解説がありました。

(面白い現代陶芸家の作品が。)

(この町家に合う作品も。)
古い家屋ですが、所々に現代陶芸家の作品が置かれていて、ミスマッチが
妙な雰囲気を醸し出していました。

(江戸時代の庄屋屋敷だったそうです。)
その後、本願寺堺別院と覚応寺に立ち寄り、『与謝野晶子の歌碑』を
鑑賞して帰路に着きました。
文化度の高い(?笑い?)一日を過ごすことができて大満足でしたぁ~♪♪♪