アボリジニー(オーストラリア先住民)に対する迫害が「内なる白濠主義」だとすれば、オーストラリアが長年取っていた、有色人種に対する移民制限は「外なる白濠主義」です。一般に白濠主義といえば、この移民制限を指します。
オーストラリアには17世紀に西欧人が到達していましたが、最初に入植したのは、1770年、ジェームズ・クックの一団だそうです。
18世紀後半のアメリカ独立にともない、イギリスはアメリカに代わってオーストラリアを流刑地とし、1788年と1791年に計約2000人の囚人(軽犯罪を含む)を送ることで、イギリス人の植民が始まりました。
まもなく、労働力不足から自由移民の募集が始まり、1828年に全土がイギリスの植民地になりました。
世界の中で、いちはやく産業革命をなしとげたイギリスは、購買力をもたない奴隷の増加を嫌い、1807年に奴隷貿易を禁止、1833年には奴隷制を廃止しました。そのため、オーストラリアは、南北アメリカ大陸の植民地のように、アフリカなどから奴隷を導入することはできませんでした。
また、1840年頃にイギリスからの囚人移送は中止されたため、プランテーション、鉱山開発などで労働者が不足。そのため、インドや中国からの労働者が導入されました。
1850年代に金鉱が発見されると、中国から大量の人々が移住。また、ヨーロッパでもイギリス以外の貧しい地域(南部)から移民が来るようになりました。いわゆるゴールド・ラッシュですね。
1860年代には、アヘン戦争、アロー戦争でイギリスが中国に勝利、イギリスやその植民地は合法的に中国人を雇用することができるようになり、オーストラリアへの中国人移民も大きく増えました。
一方、1870年代にはクイーンズランド州で砂糖のプランテーションが盛んになります。そこに季節労働者として導入されたのが、太平洋地域のメラネシア人たちでした。契約によるもののほかに、強制連行や誘拐によって連れてこられた人もいたそうです。
このような移民の増加に対し、先にオーストラリアに移民していた白人たちは、仕事を奪われて不満を募らせました。
オーストラリアの各州(当時のオーストラリアは連邦制成立前で、各州がそれぞれ統治権をもっていました)は、次々に中国人に対する移民制限法を成立させます。1890年代になると、規制の対象は中国人やメラネシア人だけではなく、日本人も含む有色人種全般に広げられました。
1901年にオーストラリアは独立(連邦制)。移民は、ヨーロッパの白人に限り、有色人種の移民は阻止するための、「移民制限法」を成立させます。
そのやり方がおもしろい。
「移民制限法」には、アジア系移民の入国を禁じるとは書かれていません。しかし、移民審査に際して、語学力テストを課すのです。それは、「ヨーロッパ語(英語を除く)の50単語の書き取り」。試験に落とすために、わざわざ「ゲール語」(アイルランドの言葉)で試験を受けさせることもあったそうです。できるわけありませんね。
日本人も、真珠貝採取やプランテーションの技術指導などで、19世紀末時点で、3000人あまりがいたそうですが、移民制限法施行以降は日本人にも「書き取りテスト」が課されて、事実上、移民できなくなったそうです。
日本は1902年に英国との間で「日英同盟」を結び、この移民制限に対してオーストラリア政府にたびたび抗議しましたが、オーストラリアは白濠主義を堅持しました。
そしてこの人種差別政策は、第二次世界大戦終了後も続き、なんと1970年代まで維持されていたのです。
オーストラリアはイギリスの旧植民地で、英連邦に属していますが、20世紀も後半になると、イギリスとのつながりは薄れ、アジア・太平洋の周辺諸国との関係強化が重要になってきました。
1972年に生まれた労働党政権は、移民政策を大きく転換、1973年に「移民法」を改正、1975年には「人種差別禁止法」を制定します。これにより、移民や、移民後の生活・教育・雇用において一切の人種差別が禁止されました。オーストラリアは以後、ベトナム戦争時のベトナム難民をはじめ、アジアからの移民を積極的に受け入れるようになりました。
これがいわゆるオーストラリアの「多文化主義」です。多文化主義は、現在、オーストラリアの国策にもなっています。
日本人が、旅行先としても、語学留学先としても、大好きなオーストラリアには、こんな「黒い歴史」があったわけです。
オーストラリアには17世紀に西欧人が到達していましたが、最初に入植したのは、1770年、ジェームズ・クックの一団だそうです。
18世紀後半のアメリカ独立にともない、イギリスはアメリカに代わってオーストラリアを流刑地とし、1788年と1791年に計約2000人の囚人(軽犯罪を含む)を送ることで、イギリス人の植民が始まりました。
まもなく、労働力不足から自由移民の募集が始まり、1828年に全土がイギリスの植民地になりました。
世界の中で、いちはやく産業革命をなしとげたイギリスは、購買力をもたない奴隷の増加を嫌い、1807年に奴隷貿易を禁止、1833年には奴隷制を廃止しました。そのため、オーストラリアは、南北アメリカ大陸の植民地のように、アフリカなどから奴隷を導入することはできませんでした。
また、1840年頃にイギリスからの囚人移送は中止されたため、プランテーション、鉱山開発などで労働者が不足。そのため、インドや中国からの労働者が導入されました。
1850年代に金鉱が発見されると、中国から大量の人々が移住。また、ヨーロッパでもイギリス以外の貧しい地域(南部)から移民が来るようになりました。いわゆるゴールド・ラッシュですね。
1860年代には、アヘン戦争、アロー戦争でイギリスが中国に勝利、イギリスやその植民地は合法的に中国人を雇用することができるようになり、オーストラリアへの中国人移民も大きく増えました。
一方、1870年代にはクイーンズランド州で砂糖のプランテーションが盛んになります。そこに季節労働者として導入されたのが、太平洋地域のメラネシア人たちでした。契約によるもののほかに、強制連行や誘拐によって連れてこられた人もいたそうです。
このような移民の増加に対し、先にオーストラリアに移民していた白人たちは、仕事を奪われて不満を募らせました。
オーストラリアの各州(当時のオーストラリアは連邦制成立前で、各州がそれぞれ統治権をもっていました)は、次々に中国人に対する移民制限法を成立させます。1890年代になると、規制の対象は中国人やメラネシア人だけではなく、日本人も含む有色人種全般に広げられました。
1901年にオーストラリアは独立(連邦制)。移民は、ヨーロッパの白人に限り、有色人種の移民は阻止するための、「移民制限法」を成立させます。
そのやり方がおもしろい。
「移民制限法」には、アジア系移民の入国を禁じるとは書かれていません。しかし、移民審査に際して、語学力テストを課すのです。それは、「ヨーロッパ語(英語を除く)の50単語の書き取り」。試験に落とすために、わざわざ「ゲール語」(アイルランドの言葉)で試験を受けさせることもあったそうです。できるわけありませんね。
日本人も、真珠貝採取やプランテーションの技術指導などで、19世紀末時点で、3000人あまりがいたそうですが、移民制限法施行以降は日本人にも「書き取りテスト」が課されて、事実上、移民できなくなったそうです。
日本は1902年に英国との間で「日英同盟」を結び、この移民制限に対してオーストラリア政府にたびたび抗議しましたが、オーストラリアは白濠主義を堅持しました。
そしてこの人種差別政策は、第二次世界大戦終了後も続き、なんと1970年代まで維持されていたのです。
オーストラリアはイギリスの旧植民地で、英連邦に属していますが、20世紀も後半になると、イギリスとのつながりは薄れ、アジア・太平洋の周辺諸国との関係強化が重要になってきました。
1972年に生まれた労働党政権は、移民政策を大きく転換、1973年に「移民法」を改正、1975年には「人種差別禁止法」を制定します。これにより、移民や、移民後の生活・教育・雇用において一切の人種差別が禁止されました。オーストラリアは以後、ベトナム戦争時のベトナム難民をはじめ、アジアからの移民を積極的に受け入れるようになりました。
これがいわゆるオーストラリアの「多文化主義」です。多文化主義は、現在、オーストラリアの国策にもなっています。
日本人が、旅行先としても、語学留学先としても、大好きなオーストラリアには、こんな「黒い歴史」があったわけです。
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