エリツィン元ロシア大統領が亡くなりました。
私の家のケーブルテレビには世界各国のテレビが映るのですが,ロシアの放送もあり,ロシア正教にのっとった厳かな葬儀の模様が延々と中継されていました。
それを見ながら,ふとなつかしい気持ちに襲われました。
その理由は二つ。
一つは,10数年前,神田ニコライ堂で執り行われたあるロシア文学者の葬儀を思い出したこと。聖堂の壮大さに違いがあるものの,ロシア正教のあの独特な雰囲気はそっくりです。
もう一つは,当のエリツィン氏。
実は私,今でこそいっぱしのコリアン・ウォッチャーをきどっていますが,若き日の一時期,ソ連ウォッチャーをしていたこともあるのです。最初に就職した会社で,どういうわけかソ連の地域研究みたいな部署に配属され,毎日午前中は日本の主要6紙のソ連関係の記事をスクラップして整理するという仕事を,数年間日課としていたのです。スクラップなんて,インターネット時代の今なら考えられないことですね。
日本の新聞だけではありません。ソ連の新聞,雑誌も定期講読し,あのヘンテコなキリル文字を解読(見出しだけ)したりもしていました。
共産党機関紙「プラウダ」(真実。そのくせ真実は一つも書いてない)
政府機関紙「イズベスチャ」(報道)
軍機関紙「クラースナヤ・ズベズダ」(赤い星)…。
時はチェルネンコ時代。
ちょうどアンドロポフ書記長が死去した直後,なんとも地味な保守派のチェルネンコが共産党書記長になりました。なにしろ当時のソ連は情報鎖国。政権内部の事情を推測する手段は限られています。革命記念日などのとき,赤の広場のクレムリン宮殿のお立ち台(?)に勢ぞろいする政治局員の並び順から権力の序列を推測するなどという,原始的なことをやっていました。
チェルネンコ,グロムイコ,チーホノフ,ゴルバチョフ
このあたりは聞いたことがあるでしょうが,
スースロフ,グリシン,リガチョフ,ヤコブレフ
となる相当なマニアでなければ知らないのでは?
そして一年ほどで病弱なチェルネンコも死に,政治局内の権力闘争を勝ち抜いたのが,当時最年少政治局員のゴルバチョフ。
ここからソ連は俄然面白くなりました。
グラスノスチ,ペレストロイカ,ライサ夫人,チェルノブイリ原発事故…。
ゴルバチョフの急進的な改革が進む中,めきめきと頭角を表したのがエリツィンとシェワルナゼ(後の外相,グルジア大統領)でした。その異例の昇進スピードには目を瞠ったものです。
その後,歴史は急展開し,ベルリンの壁崩壊,ソ連解体,エリツィンのロシア大統領就任…。
しかし,このころ私はその部署を離れ,急速にソ連・ロシアへの関心を失い,まもなく転職して,今度は韓国三昧の生活が始まることになります。
エリツィン氏の本当の活躍はそれ以後なのですが,私の個人史の中でエリツィン氏は,ゴルバチョフ時代の若手のホープという感が強いのです。そういう意味でエリツィン氏は,私にとって「なつかしい存在」だったわけです。
しかし,あのソ連三昧の時代は,なんだったんだ?
私の人生にとって,どんな意味があったんだ?
ふとそんな思いがよぎることがあります。
まあ,まったく無意味だったということはないでしょう。その仕事を通して,冒頭の高名なロシア文学者はじめ,お偉いソ連研究者とお近づきになれたし。
キリル文字をかじったことで,それほど抵抗なくハングルを習得できたのかもしれないし…(でも,ハングルの100倍難しいタイ文字は挫折しましたが)
ともかくエリツィン氏の冥福をお祈りします。
私の家のケーブルテレビには世界各国のテレビが映るのですが,ロシアの放送もあり,ロシア正教にのっとった厳かな葬儀の模様が延々と中継されていました。
それを見ながら,ふとなつかしい気持ちに襲われました。
その理由は二つ。
一つは,10数年前,神田ニコライ堂で執り行われたあるロシア文学者の葬儀を思い出したこと。聖堂の壮大さに違いがあるものの,ロシア正教のあの独特な雰囲気はそっくりです。
もう一つは,当のエリツィン氏。
実は私,今でこそいっぱしのコリアン・ウォッチャーをきどっていますが,若き日の一時期,ソ連ウォッチャーをしていたこともあるのです。最初に就職した会社で,どういうわけかソ連の地域研究みたいな部署に配属され,毎日午前中は日本の主要6紙のソ連関係の記事をスクラップして整理するという仕事を,数年間日課としていたのです。スクラップなんて,インターネット時代の今なら考えられないことですね。
日本の新聞だけではありません。ソ連の新聞,雑誌も定期講読し,あのヘンテコなキリル文字を解読(見出しだけ)したりもしていました。
共産党機関紙「プラウダ」(真実。そのくせ真実は一つも書いてない)
政府機関紙「イズベスチャ」(報道)
軍機関紙「クラースナヤ・ズベズダ」(赤い星)…。
時はチェルネンコ時代。
ちょうどアンドロポフ書記長が死去した直後,なんとも地味な保守派のチェルネンコが共産党書記長になりました。なにしろ当時のソ連は情報鎖国。政権内部の事情を推測する手段は限られています。革命記念日などのとき,赤の広場のクレムリン宮殿のお立ち台(?)に勢ぞろいする政治局員の並び順から権力の序列を推測するなどという,原始的なことをやっていました。
チェルネンコ,グロムイコ,チーホノフ,ゴルバチョフ
このあたりは聞いたことがあるでしょうが,
スースロフ,グリシン,リガチョフ,ヤコブレフ
となる相当なマニアでなければ知らないのでは?
そして一年ほどで病弱なチェルネンコも死に,政治局内の権力闘争を勝ち抜いたのが,当時最年少政治局員のゴルバチョフ。
ここからソ連は俄然面白くなりました。
グラスノスチ,ペレストロイカ,ライサ夫人,チェルノブイリ原発事故…。
ゴルバチョフの急進的な改革が進む中,めきめきと頭角を表したのがエリツィンとシェワルナゼ(後の外相,グルジア大統領)でした。その異例の昇進スピードには目を瞠ったものです。
その後,歴史は急展開し,ベルリンの壁崩壊,ソ連解体,エリツィンのロシア大統領就任…。
しかし,このころ私はその部署を離れ,急速にソ連・ロシアへの関心を失い,まもなく転職して,今度は韓国三昧の生活が始まることになります。
エリツィン氏の本当の活躍はそれ以後なのですが,私の個人史の中でエリツィン氏は,ゴルバチョフ時代の若手のホープという感が強いのです。そういう意味でエリツィン氏は,私にとって「なつかしい存在」だったわけです。
しかし,あのソ連三昧の時代は,なんだったんだ?
私の人生にとって,どんな意味があったんだ?
ふとそんな思いがよぎることがあります。
まあ,まったく無意味だったということはないでしょう。その仕事を通して,冒頭の高名なロシア文学者はじめ,お偉いソ連研究者とお近づきになれたし。
キリル文字をかじったことで,それほど抵抗なくハングルを習得できたのかもしれないし…(でも,ハングルの100倍難しいタイ文字は挫折しましたが)
ともかくエリツィン氏の冥福をお祈りします。
※コメント投稿者のブログIDはブログ作成者のみに通知されます