犬鍋のヨロマル漫談

ヨロマルとは韓国語で諸言語の意。日本語、韓国語、英語、ロシア語などの言葉と酒・食・歴史にまつわるエッセー。

韓国とアイルランド⑧~イギリス支配の確立

2009-09-17 23:37:21 | 近現代史
 イギリスによるアイルランド支配がいつから始まったかは,見方がわかれる。イングランド王ヘンリー二世の侵略を,イギリスによるアイルランド支配の始まりと見れば,イギリスの支配は実に800年の長きに渡ったということができる。しかし,このときの支配者はノルマン人であった。当初,ノルマン人とアイルランド人は,それぞれ平野部と山岳部に棲み分けていた。やがてノルマン人は徐々に支配地域を広げていき,1250年までには全島の4分の3を支配下に置いた。しかし,アイルランドにおけるノルマン人の人口はそれほど多くなく,イギリス王もフランスとの争いに注意を奪われ,アイルランド経営が疎かになっていった。侵略者は次第に土着化。イギリスへの忠誠が弱まったため14世紀には,イギリスが直接支配する地域はダブリン周辺のみになった。

 次にイギリスが再びアイルランド支配したのが,16世紀のチューダー朝である。イングランド王ヘンリー八世は,それまでのアイルランド卿から「アイルランド王」を称し,ここにアイルランド王国(イングランドと同じ君主)が成立する。

 イギリスはヘンリー八世の離婚問題を契機にローマ教皇から独立。「イギリス国教会」を立てた。敬虔なカトリックの国であったアイルランドに対しても,「アイルランド国教会制度」(1536年)を導入,改宗を強要。それに反対するカトリックの地主から土地を没収し,以後,イングランドからの入植が増加し,イギリスによる支配が強まった。

 抵抗は続いたが,1652年,クロムウェル軍が遠征。さらに1694年にはウィリアム3世軍が抵抗を完全に鎮圧した。カトリックの土地の多くは没収され,イギリスのアイルランド支配がここに確立された。


 二度にわたる戦乱と虐殺(1641~53,89~91)により,アイルランドの全人口の3分の1が死亡または国外流出したと言われる。

 この時期の英愛関係に比べられるのは,秀吉の朝鮮出兵でしょう。しかしそれは一時的な侵略にとどまりました。

 朝鮮半島は,支援を要請した明軍も軍糧を現地調達し略奪を働いたため,甚大な被害を蒙りました。しかし,日本は秀吉の死後,朝鮮から撤収し,結局半島を支配することはなく,土地の略奪も,宗教の強制も,入植もありませんでした。

 もし秀吉に続く日本の支配者が,秀吉のような好戦的な武将であって,「鎖国」という世界史上珍しい政策をとることがなかったら,朝鮮半島にとどまらず,東南アジア広域にわたって植民地帝国を建設していたかもしれません。秀吉の時代,日本の銃保有数は世界一だったといわれます。


 なお,秀吉の朝鮮出兵時,朝鮮の陶工が多数連れ去られ,日本では優遇されて各地で陶磁器が作られるようになります。これについては司馬遼太郎が『故郷忘じがたく候』という感動的な歴史小説を書きました。ただ,この内容については疑義を唱える向きもあります(→リンク)。

 また,当時の陶工は日本で厚遇され,実際には帰りたくなかったのだろうという前提で書かれた『故郷忘じたく候』(荒山徹,文春文庫)というパロディー小説(?)もあります。


「元和三年(1617年)朝鮮使節が十年ぶりに訪日した。目的のひとつは秀吉による朝鮮の役における朝鮮人被虜の「刷還」、つまり取り戻しであった。
 しかし問題が生じた。誰も故国に帰りたがらないのである。前回慶長十二年の使節もそれをもとめたが、帰国者は千二百人、「九牛の一毛を抜くがごとし」であった。
 帰国を厭うのは、宋学的空論を重ねて相争う両班を頂点とした、徹底した身分差別を喜ばないからである。陶工やキーセンなど技芸の民のみならず、常民(サンノム)もみな日本にとどまりたがった。
 清正没して衰運する肥後加藤家は、尊大な使節の意を迎えるべく領内定住朝鮮人の「説得」、というより「事実上の人狩り」を行ってようやく五十人をそろえた。
 そのうちのひとりの女性が、二十四年前、普州篭城戦における無責任な両班への恨みを含みながらも、恭しく使節に告げた言葉、それが雅な朝鮮語「故郷忘じたく候」(コヒャン・イッコ・シプサオムナイダ)であった」
(関川夏央,朝日新聞文芸時評,2002年頃)

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