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Brugge Style
もえたんバスにのる
昨日のことだ。
娘は学校でフルオーケストラを始め合計4つの合奏グループに所属していて、水曜の朝はチェンバー・トリオのピアノ担当で朝練がある。
夫が出張で不在のため、わたしが娘を送るべく早朝まだ暗いうちに車に乗り込んだ。
おそらくこの冬一番の冷え込み。凍結した車窓を解凍するためにエアコンを全開でつけ、スプレーを振る...
エンジンかかりません。
バッテリー上がってますやん。
早速AA(英国の JAF)に電話をしてどんなに急いているかを伝えたが、「午前中に行けるガレージがあるかかどうか...」という返事。
マニュアルを読み上げているかのようなAAのオペレーターの話を聞くのももどかしく、続けて近郊のタクシー会社4件電話をしてみるも「すべて出払っていて、早くても1時間後に行けるかどうか...」「うちからではお宅までピックアップには行けません」という返事。もともとタクシーの数が少ないのは知っていたがこれほどとは。
夫のマニュアル車(2台とも!)はわたしには運転できない。
私立校に通っているため、生徒の居住地がさまざまで、近所の人に近所の学校へ便乗させてもらうという「地元」のつながりもない。
車のボンネットを開けたこともないタイプですよ、あたしゃ...
わたしは神戸の山手出身で、それこそ子供の頃はバスも来ていなかったような山裾に実家があるが、阪急電車の駅まで出るのにちゃんと歩道は整備されていた(20分ほど)。
しかしここサリーの美しき田園には歩道がない。
完全車社会を想定しているためか、村と村、街と街の間には車道しか走っておらず、マウンテンバイカーは見かけるが、人は歩いていないのだ。歩きたくても危険で歩けないのである。
こういうとき、車必須の生活圏が恨めしくなる。
考えてみたら薄氷上のライフライン、陸の孤島住まいではないか。
現代のロビンソン・クルソーか。ほうきの折れた魔女か。
自宅から徒歩5分足らずのところに停留所があるのは知っていたのでそこまで歩く。しかしそこには停留所名はおろか、時刻表もなく、不安をかきたてるだけなので、仕方なく徒歩で15分ほどのハイストリートに出、バスを待った。
40分後にバスが来て、英国在住3年目、初めてバスの乗った。結果、なんとか娘を学校まで送り届けることはできたが、帰りのバスには1時以上待たされた。車生活ゆえの軽装を悔やみながら時刻表を見ると1時間に1本のペースらしい。
帰ってから早速iPadに時刻表などを取り込んで「次回は大丈夫」と安心する。
車社会...
英国で最も豊かだとされるサリー州に住んでると、英国が想定する「強い個人」(<ゆるいリバタリアニズムと勝手に呼んでいる)が多いことに気づく*。
強い個人にとっては例えば車社会は非常に便利で自由が効いていいだろう。わたしも普段は無意識でそう思っている。
車を家族メンバーに1台ずつかそれ以上用意でき、またその駐車スペースも維持費も出せるような経済的にも肉体的にも整った人々。
しかしわれわれはいずれ皆、年をとり、車の運転がおぼつかなくなるだろう。また、明日何が起こって車を運転できなくなったり、維持できなくなったりするかも分からない。
日本では、いやべルギーではもう見ることもないような旧型、ボロでガタガタでアンモニア臭のするバス。乗り込む人品卑しからぬ老人たち。
公共交通機関のメインテナンスがこんなにおろそかでいいわけがないのに。
英国のさらに暗い行き先「超格差社会」に向けて走っているようなバスだった。
*日本で時々「医療教育福祉が無料の英国を見習え」という意見を聞く。最近は減ったかもしれないが。しかし、英国の「無料」は最低限(日本人が想像するよりもずっと最低限)、だから「強い個人」はマシなサービスを求めて大金を出す、出さねばならないのである。
そして、車社会の住人がバッテリーの充電の仕方を知らないようではいけない。早速教えてもらいました。
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