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オックスフォード・サーカスのランチタイム

「日本イルカ虐殺! 日本イルカ虐殺! 日本イルカ虐殺! 止めよイルカ虐殺!」
スピーカーの声が割れるほど絶叫しながら、血塗られた日の丸を降り、先頭に白塗り白装束、黒髪の女性(日本女性のつもりか)を磔刑のキリスト像のように掲げてゆっくり歩いて来る。
短いスローガンを延々繰り返されると、人間の思考は停止する。たまたまあのデモを目撃したごく一般的な人々はどう思うのだろう。「憎むべき野蛮な日本人」と、何の検証もせず信じてしまう人はいるだろうか。
洗脳というのはまさに懐疑能力や検証能力を失うことであるからして。
デモにはデモの言い分と方法と効果がある。しかしあのような言い方では、心からイルカや自然環境のことを心配している知的な団体というよりは、短いスローガンを暴力的に撒き散らし、世の中の人々にただただ「日本人は野蛮でバカである」という烙印を押したいだけの団体という印象をすら与えはしまいか。
まあそれがメインの目的なのかもしれないのだが。
わたしは「他者の文化を野蛮だと断罪するその態度こそが野蛮である」と反射的に耳と心を閉ざして横断歩道を渡った。
自分が誇りを持っている文化の一部にこういった不公平な形でケチをつけられて、侮辱されたと感じない人がいるだろうか。
捕鯨やイルカ漁に関する批判を受けてわたしがイラつくのは、主にここに原因がありそうだ。
イルカを習慣的に食べる日本人は、食べない日本人よりも圧倒的に数が少ないのではないかと思う。
食に関してはかなりオープンマインドでチャレンジャーのわたしでも、イルカはいまだかつて一度も食べたことがないし、今後も進んで食べるつもりもない。
水族館のイルカは家に連れて帰りたいほどかわいらしい。
はできるだけ動物の負担にならない方法を採るべきだし、種を絶滅させるのもいけないと思っている。
その上で日本のローカルな伝統文化は尊重したいし、ローカルな文化に強く反対する別のローカルな文化もあるということも尊重したい。両者が歩み合う可能性はある。
しかしだ。
完全に上から目線で、
「イルカという愛らしくも賢い動物を殺戮する日本人は野蛮である。愚劣な彼らに真に優れた文化というものを教えてやろう」
という一方的な価値観をおしつけてくるだけの相手とはあまり話をしたくない。
わたしはムキになってこう言う。
「車やヘリコプターからカンガルーを撃つのは野蛮ではないのか」
「狐を犬の大群が負うのは野蛮ではないのか」
「小学校や病院を空爆するのは野蛮ではないのか」
「知能の高低で動物に優劣をつけるのは野蛮ではないのか」
ああ、売り言葉に買い言葉、文明の衝突。
文化相対主義に対する批判ももっともであることは認める。わたしも例えば女子割礼やアルビノ狩りやキツネ狩りが文化だと主張されたらぐうの音も出ない。しかし「なお相対主義とは、それぞれの文化、思想、慣習などを擁護する姿勢ではなく、あくまでそれらに対する偏見を排した見方・研究の方法であり、文化相対主義を擁護する者が必ずしも非倫理的習慣を支持しているわけではない。」(ウィキペディアより)
自分たちの理解も想像を超えた文化に出会った時、一方的に悪者呼ばわりするのではなく、偏見をできるだけ捨て、歴史を学び、相互理解を進め、おだやかな話し合いで解決はできないのか。
何だろうか、あるグループの善男善女の文化価値的には「おだやかで丁寧な話し合い」は野蛮な行為とでもみなされているのだろうか。話し合いでは時間がかかりすぎる、とかいう理由で?
その後、わたくしはリトル・ソーシャルというフレンチビストロで、丁寧につくられたことがしみじみ感じられる、牛肉の横隔膜のタルタルを前菜に、仔羊のコンフィを食べた。
隣のイギリス人のビジネスマン2人は、40日熟成の血の滴るTボーンステーキにむしゃぶりつき、反対の席のフランス人ビジネスマン2人は、トリュフのたっぷり乗ったフォアグラを食べていた。
(鯖田豊之著「肉食の思想―ヨーロッパ精神の再発見 」中公新書1966、 おすすめです)
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