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ジゼル母が説明する「ジゼル」の事情




2016年度版ロイヤルバレエ「ジゼル」のリハーサルへウキウキと馳せ参じた。

プリンシパルに二転三転あり(おもしろくないので一番下に書いた)。


ジゼルはローレン・カスバートソン(Lauren Cuthbertson)。

娘がカスバートソンの大ファンで、本番で彼女の回を2回観覧するのを楽しみにしている。

娘はカスバートソンのバレエのテクニックのみならず、演技力に非常に注目しているそうだ。
バレエというのは本来大げさなものなのである。スーザン・ソンタグいうところの「キャンプ」だもんな。しかしなるほど、ローレンには大げさなところが全くなく、彼女以上に自然な演技をするダンサーはいないだろうとすら思わされた。娘がフォローしているゆえ、時々聞かされる彼女のインスタグラムのユーモラスなエピソードと合わさり、魅了された。


ロイヤルバレエのわたしの数少ないマイナス評価のひとつは「説明しすぎ」なことだ(こちら)。

バレエに独特のつじつまが合わない部分や、曖昧だったり強引だったりするストーリー展開は、観客それぞれに解釈を任せるべきで、あまり細かく説明する必要はない、というのがわたしの意見だ。

なぜならわれわれは、世界の「その美しさをもっとも強烈にもっとも純粋に意識することをめざした」パフォーマンス、つまり「芸術」を見るために来ているのであり、それが現実世界とは異なる合理で動いているのは当たり前であると知っている。
「喜びそれ自体を実生活から分離せしめて純粋に味わいたい」のであり、なぜ姫は呪われるのかとか、あの悪魔の目的は何? とか、起承転結の微に入り細に穿った、現実世界的な説明は不要である。
(「」内は、福田恆存「藝術とは何か」中公文庫、32頁と21頁より)

が、偉大なるロイヤルバレエの演出家連はストーリー展開の不合理さや説明不足がどうしても許せないのだろう、今回も前回(2年前のシーズン)の「ジゼル」に比べて苦笑を誘うほど説明が長くなっている部分があった。

ジゼルはもともと体が弱い。だから激しい踊りをしたり、興奮したりするのは禁物である。これが彼女が狂死することの伏線になっている。
また結婚前の娘(処女)が死んだら、精霊になって森を彷徨うことになる。

この2点をジゼルの母親がマイムで延々と語るのだ。
それ、必要か? 話の筋を知らない人はいくら母親がマイムで熱く語ったところで何もわからないと思うんだけど...


ロイヤルバレエは、「くるみ割り人形」では、なぜ青年が人形にされたか、「白鳥の湖」では、なぜ人間の姫が白鳥にされたかなどを説明しまくる。
災難は理由なく人間を襲うもので、そこには因果関係はなくてもいいはずなのに。

きわめつけは「ドンキホーテ」だ。ロイヤルバレエはドンキホーテがなぜ空想に耽るかを説明してしまったのだ! 説明に熱中するあまり、騎士の冒険に憧れるドンキホーテを統合失調症にしてしまわざるを得なかったんですぜ、彼らは!(こちら
これはひどい。


しかしそれを差し引いても、ロイヤルバレエの物語バレエはすばらしい。

...ひいきの引き倒しには気をつけるようにしよう。


......



その日のオープニングナイトで踊るはずだったナタリア・オシポヴァ(Natalia Osipova)が前日怪我(またか...)、サラ・ラム(Sarah Lamb)が代役に立つことになり、しかしラムは同日午前中のリハーサルを踊ることになっていたためリハーサル出場は取りやめ、リハーサルにはローレン・カスバートソン(Lauren Cuthbertson)が出た。

しかも公演後避難訓練をさせられた。サイレンが鳴って、ダンサーのようにきびきびした動きを求められるのかと思ったが全くどうってことなかった。


来月、オシポヴァを楽しみにチケットを取ってあるのにまた見られないのかとしょげてしまう。
今までオシポヴァで取ったのに欠場になった回が少なくとも4回はある。特に高価な席を取っていた時など、かなり消沈する。怪我のためにロイヤル・バレエで踊れなくなることが(偶然だとは分かっていても、不自然に? などと思ってしまう)多すぎはしまいか。ボリショイとかにはきっちり出てはるのになあ...



(右の写真は2009年のもの、ロイヤルバレエのサイトから)
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