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Brugge Style
役に立たない旅の話
どちらかというとよく旅行するほうだと思う。
さまざまな場所と時・空間で、その土地の人々が「美」と定義しているものをぜひ見せて・聞かせ(体験させ)てもらいたい。
動機はこれだけだ。
宗教を持たない文化はなく、宗教施設は「地上で最も美しい場所」「あの世の模倣」「理想」を目指して作られていると思うので特に興味がある。
フットワーク軽く、お調子者で、健康には自信があり、美食は好きだが何でも食べられ、誰とでも話ができる。
お誘いがあれば当然どこにでも出かけるし、体験したいことがあれば空想では終わらせず、限界は設けず、今後も旅して回りたい。
それにもかかわらずこの拙いブログ内に「旅行」のカテゴリーがないのは、わたしの旅記事が他の方の実用にはなんの役にも立たない部類のものだからである。
観光の対象やウンチク(わたしは大変なウンチク好きでもある)、いいレストランやホテル、チケットの買い方などの情報は、ごまんとあるガイドブックより上手く書けるとは思えないし、常に客観的な旅の情報を載せてくれているすてきなネット上の情報源もたくさんある。
ではなぜ役にも立たない旅の話をコンスタントにあげるのかというと、別に自慢して認めてもらいたいわけではなく(それもあるけど...)、少なくともわたしにとっては旅の話は役に立たない話の方が貴重だからだ。
たとえば偶然出会った人に普段は入れないような場所に導かれたり(そこでさらにすごい人に出会ったりとか)
芋づる式に点と点が繋がっていくときの熱狂するような感覚
平凡な場所で忘れていたことを思い出し、それがどれだけ非凡なことか忘れまいと決心し(でもまたきっと忘れる)
思い出や想像の場所に期待爆発で出かけても、そこは全くそんな場所ではなく、いったいどこに行けばいいのかという喪失感にかられ
前世ここで生活していたのではないかとか
この場面、前に見たことある!(デジャヴ)
その反対のジャメヴもあり
もう2度とここに来ることはないのだ、もう2度とこの人に会うことはないのだという諦観
死んでいった人たちのこと
今はもうない、過ぎた時代のこと
小さな親切やお世辞を受けたりとか
その時だけの光や音や匂い
何よりも他人には世界はこのように見えているのだという衝撃
例えばこの間、イタリアで目当てのレストランをのぞいたら昼休み中で、なんと招き入れられて声が出るほど美味い賄いを食べさせてもらった(でもまさかその名前はあかせない...)。
テーブルを囲んで食事中の見知らぬ人々の背中にそれぞれの人生の「事情」が見え、自分の中から未だかつてないほどの愛情があふれ出すような気持ちになった。
わたしでさえこんな気持ちになるのだから、そりゃイエスはわれわれひとりひとりのことを無限に愛しているだろう。
まあどれもこれも旅人のつまらない感傷に過ぎないのだけれども、それはわたし以外のどなたの役に立つものでもないし、でもそれがわたしにとっては一番大切なことで、また誰かにぜひ聞いてもらいたい与太話でもある。
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