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Brugge Style
リバタリアンのゴージャスな宮殿
2023年のオープン以来、ブルージュに帰省すると宿泊するホテルがある。
19世紀の公証人の大邸宅を改装したThe Notary。
部屋数は9。
一部屋ずつ異なる凝った装飾が心おどる、家のようにくつろげる落ち着いたよいホテルだ。
先週はすでに各部屋に大きなクリスマス・ツリーやマントルピースが飾られ、季節の特別感にあふれていた。
しかし、ひとつだけ、たったひとつだけ、このホテルにはかすかに居心地の悪いことがある。
言ってもいいかな...
ここは実にリバタリアンの宮殿なのである!
リバタリアンは政府の介入を最小限に抑え、市場と個人の自由や自己責任を最大限に尊重する立場である。
社会が円滑に機能するために最低限必要な設備やサービスであるインフラ(例えば道路や鉄道、上下水道やガス、医療や教育、国防や警察、裁判所などの治安維持システム、ごみ収集、堤防や避難所の設置...)も、民間が提供し、受益者が費用を負担すべきと考える。
まあ今後のアメリカですわな。
リバタリアンの宮殿? ホテルが?
どういうことか、と思われるでしょう。
9部屋それぞれには部屋ナンバーではなく、リバタリアン経済学者、無政府資本主義(アナルコキャピタリズム)思想家の名前が冠してあるのだ。
例えば、フリードリヒ・ハイエク、ルートヴィヒ・フォン・ミーゼス、アイン・ランド、マレー・ロスバート...
しかも、ホテルの部屋に備え付けの本といえば普通は聖書だが、ここではリバタリアンの著書群、雑誌である。
思い切り洗脳してくる。
リバタリアンの哲学が、その美しいブルーグレーの壁から漂ってくる...
わたしはケインジアンなのに!
と、普段は全く意識しない自分のケインジアン的な部分が叫びそうになる。
ケインジアンは経済の安定と成長には政府の介入が不可欠だという立場だ。
だから部屋のドアに美しい飾り文字で書かれた最強リバタリアンの名前を見るたびに、くつろぐどころか対決するような気持ちになってしまうの(笑)。
ケインジアンが、ハンス=ヘルマン・ホッペなどという名のついた部屋で過ごすのは...
おそらくアメリカ民主党の人間が共和党の大会に紛れ込んだらこのように感じるのではないか。
そうは言っても、わたしはリバタリアンや無政府主義に完全に反対しているわけではない。
むしろ、究極的には人類が成熟し、政府や警察や裁判所、あるいは「神」などのレフリーの介入なしに、公正で平等で自由な社会を築くのが理想だと考えている。
ルールが厳格で、常に仲裁者やレフリーが目を光らせている組織は、公平さと清潔さを保つ「かも」しれない。
が、成熟した個人が集まった組織ならば、ルールやレフリーがなくても自然に公平性や自由が保たれるだろう。
そのような組織のほうが、はるかに幸せで居心地が良さそうだと思うのだ。
最終的に人類が目指すべきは、権力を委託された政府や警察などの仲裁者の判断に依存する必要がなく、独裁的な権力を持たせる心配もなく、横暴や介入もなく、人々が自由で平等かつ平和な生活を送ることができる状態である。
一方、リバタリアニズムが生まれた背景には、歴史的な文脈がある。
啓蒙時代やアメリカ独立戦争、共産主義の台頭といった時代に、個人の生命や自由は国家の強権的支配によって大いに脅かされてきた。
現代のヨーロッパの社会福祉資本主義の中にも、税金が重すぎる、規制が厳しすぎる、EUが口を出しすぎるなど、同じように感じている人々がいるだろう。
国家の介入が強まる中で、個人の自由を守るためにリバタリアニズムが発展してきたことは理解できる。
しかし、わたしは政府の役割を止めることには、少なくとも今の時点では疑問を感じる。国連はほとんど機能していないが。
人間は「今だけ、ここだけ、自分と身内だけ」という考え方から未だに脱皮できていない...
この点において、ホセ・オルテガ・イ・ガセットの思想は、リバタリアニズムとケインジアニズムの間をつなぐのではないかと、素敵なサロンでお茶を飲みながら思ったのだ。
19世紀スペインの偉大な思想家オルテガは、個人の自由を尊重しながらも、成熟した個人が社会全体に対して責任を持つべきだという立場を取っている。
著書『大衆の反逆』では、大衆がただただ多数派へと無自覚に流されることに危機感を表明しており、個人の自由は単なる権利ではなく、成熟した個人が果たすべき義務と責任の一部だと強調している。
文明とは、人間が「野蛮」へと後退しないために存在する。
わたしはこのステイトメントに惚れ惚れする。
「手続き、規範、礼節、非直接的方法、正義、理性!これらは何のために発明され、なぜこれほどまでに複雑なものが作られたのか。それらはすべて《文明》という一語に集約され、《文明》は都市、市民、共同生活を可能にするためのものだ」とオルテガは言う。
文明は、「仲間」でも「同類」でもなく、「共感」も持てず、「つながり」も「絆」もない他者と共に生活するためにある。
それを体現する人々こそが「貴族」であると、実際に貴族の称号を持っていたオルテガは言った。
自分と自分の身内と友達、今・ここだけが良ければそれでいい「自由な」人たちのことではない。
すでにお分かりかと思うが、部族主義的に細かくグループ化されるのを好み、共感できないものは無視し、異質なものを排除する、それが野蛮である。
オルテガの思想は、リバタリアニズムが掲げる個人の自律性と、ケインジアニズムが重視する社会的調和の重要性を結びつけるものであると思う。
自由市場においても、個人の成熟と他者への配慮が求められ、同時に、個人の成熟が進むことで、ケインズ主義的な政府の介入も徐々に縮小されるべきだという視点ならば、非常に共感できるものだ。
ケインズ主義を支持しつつ贅沢を求める立場としては、ヘルマン=ホッペの部屋はちょっと早すぎたのかもしれない。
わたしはオルテガの宮殿を作ろうかな。
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