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alone together : rothko展 パリ


Self-Portrait(1936)


4月2日までパリのFoundation Louis Vuittonで開催されているRothko(1903-1970)展には110点もの作品が集まっている。

(先日アメリカで彼のあまり知られていない紙の作品(つまり比較的サイズの小さい作品)展があり、3000点ある紙の作品から選ばれた展示だったそう。見てみたいなあ!)


Slow Swirl at the Edge of the Sea (1945)


わたしがこの規模の彼の展覧会を見るのは初めてだ。
全体的には、作品の展示方法、光や空間が醸し出す「場」にこだわった彼の考えに比較的ふさわしい形だったと思う。

A picture lives by companionship, expanding and quickening in the eyes of the sensitive observer. It dies by the same token. It is therefore risky to send it out into the world (Rothko)
「絵画は共鳴によって生きています。感受性のある人々によって生命を与えられ成長します。同じように、それは同じ理由で死ぬこともあります。したがって、作品を世に送り出すことは、リスキーな行為です。」(ロスコ)


Untitled(1946)


Untitled (Multiform)(1948)


後期の彼の作品を代表するようになった抽象表現主義、カラーフィールドにいたるまでを、時系列に沿ってグループで展示する方法(ただ、彼は作品を抽象と評されることを嫌い、自分の作品は生きて息をしている、と言っている)。

初期の表現主義、神話抽象主義、シュルレアリスムの最初期から、途中のマルチ・フォーラム期を経て、作品がどのような影響を受け、どのように変化したかが、他のアーティストの絵画だけでなく、音楽や書物を介して紹介されているのはとてもよかった。


No.8 (1949)


しかも、シーグラム壁画とテイト・ブリテンのロスコー・ルームがそのまま再現してあり、最後は彼の「黒」の時代で終わるところまで。

まるで彼が自分で決めた死は、ブラックホールのように彼の身体を包み込み、そのまま向こうへ、ふっと連れ去ってしまったようだった。


Blue, Hello, and Green on Red (1954), 中央No.7(1951),右No.11/No.20(1949)


入り口に並ばされているときは、「こんなに人が一挙に入場したら、良さが半減するのでは?」と心配になったが、会場が広いため(さすがフランク・ゲイリー設計の会場だ)、比較的気にならなかった。

alone together... 

人は、ひとりひとりが聖堂にいるように瞑想し、内省的になり、永遠に帰依するかのようになるが、その孤独は他の人たちと共有されている...

大勢の観客の中に、熱心にご覧になっているなあ、と思ったフランスの美女がいて、そうしたらその方が「あなた、ロスコが好きなのですね。わたしもです」と、にっこり。
びっくりした。恋に落ちそうだった(笑)。


No.9 (1952)


和辻哲郎いわく、もののあはれとは、「無常観的な哀愁の中には、『永遠の根源的な思慕』あるいは『絶対者への依属の感情』が本質的に含まれている」と解釈している (『日本精神史研究』より)」。

it seems to me that the heart of the matter is how to give this space the greatest eloquence and poignancy of which my pictures are capable(Rothko)
「問題の核心は、私の作品の持つロゴス(論理や理性、言語)と、パトス(感情や情熱)を、空間にどのように与えるか、です」(ロスコ)

ここのeloquence and poignancyは訳の難どころで、eloquenceは、雄弁さ、説得力、表現力、などと、 poignancyは感動、切なさ、感情...などである。

わたしとしては、poignancyは「もののあはれ」と訳したいのだが、「もののあはれ」の対義語がわからないので、ロゴスとパトスにしてみた。
ロゴスは、単に「理性」「論理」という意味ではなく、森羅万象に内在する合理的な力、天地創造の背後にある神の御心、である。




先月、わたしが訪れた(最愛の)ヴェネツィアには、ロスコが「かつてこの教会を訪れて強い感銘を受け、彼の集大成となった「ロスコ・チャペル」の主要な霊感源としている」(宮下規久朗『ヴェネツィア物語』)ビザンツ様式のサンタ・マリア・アッスンタ聖堂がある。

その聖堂のあるトロチェッロ島は、ヴェネティア発祥の地であり、5世紀には数万人の人口を抱え、11世紀に最盛期を迎えたが、ラグーナに砂が堆積、現在ではなんと数人しか住んでいない島だ。

「このヴェネツィア最古の教会には今なお森閑とした雰囲気が漂い、モザイクで覆われた空間のうちに深い宗教性が息づいている。聖と俗、生と死を宿したこれらシンプルなモザイク群こそ、絢爛たるヴェネツィア絵画の原風景なのだ。」(同上)

アプスに立つ聖母マリアとそれを取り巻く黄金のモザイクは涙が出るほど美しく、永遠で、包み込むように偉大で、慈悲深い。
日本の寺院で、黄金の観世音菩薩を廃している時のような...








ラトビア生まれで、アメリカに移住したロスコは、ヨーロッパ旅行で宗教施設に感銘を受けている。

「フィレンツェのサン・マルコ修道院にあるフラ・アンジェリコのフレスコ画は、彼に最も感銘を与えた。フラ・アンジェリコの精神性と光への集中...」(同上)など。


われわれはひとりで生まれ、ひとりで死ぬ。
永遠への憧れは、「死」という終わりの概念に対する可憐な抵抗、完全性への欲求、愛の渇望、精神的な旅、の表れであろうか。


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パリの夕焼けにすいこまれる





モエ@パリ。
エトワール広場、凱旋門の向こうの夕焼け。

パリは、いつ、何度訪れても、心が躍り、身体が舞い上がる都市で、もちろん大大大好きっ、今回は2つの特別展を見るのを主な目的として、英国島から渡って来た。


一日の終わりに、エトワール広場で、たった見たばかりの、大大大好きっマーク・ロスコ展Rothko (@Foundation Louis Vuitton)そのもののような夕焼けを見た。

このエリアにはお客さんをご案内する以外はほとんど来ないが、集合的無意識(ユング)にかられて他の大勢の人々と一緒に、一刻と色を変えていく、まるで音楽(フーガかな)のような空の色に見入り、すいこまれるような感覚を味わった。
ああ、これはたった今、ロスコの作品の前で感じた感覚と全く同じだ、と...


it seems to me that the heart of the matter is how to give this space the greatest eloquence and poignancy of which my pictures are capable(Rothko)

「問題の核心は、私の作品の持つロゴス(論理や理性)と、パトス(感情や情熱)を、空間にどのように与えるか、です」(ロスコ)


ここのeloquence and poignancyは訳の難どころで、eloquenceは、雄弁さ、説得力、表現力、などと、 poignancyは感動、切なさ、感情...などである。

わたしとしては、poignancyは「もののあはれ」と訳したいのだが、「もののあはれ」の対義語がわからないので、ロゴスとパトスにしてみた。
ロゴスは、単に「理性」「論理」という意味ではなく、森羅万象に内在する合理的な力、天地創造の背後にある神の御心、である。

和辻哲郎いわく「無常観的な哀愁の中には、『永遠の根源的な思慕』あるいは『絶対者への依属の感情』が本質的に含まれている」と解釈している (『日本精神史研究』より)」。


彼の表現主義的な初期作品から、シーグラム壁画も、ロスコ・ルームも一緒に見られるこの展覧会については日を改めて書く。


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「ここには何もないじゃない?」 




週末、ヴェルサイユ宮殿へ行った...


というのはウソで、ロンドン南方の自宅から車で45分ほどの距離、ウェストサセックス州にあるペットワース・ハウス(カントリーハウス:田舎や農村地域、広大な敷地に建てられた大規模な邸宅)へ行った。

広大な敷地に建つ建物の裏側(上の写真)を見て、わたしが、え、ヴェルサイユ? と思ったのもそれほど的外れではなく、より秩序と対称性を好んだ英国バロック様式の本館は17世紀のもので、ヴェルサイユ宮殿に触発されたデザインだという。


わたしは今回が初めての訪問だった。
ペットワースの街には何回も行ったことがあるのだが、カントリー・ハウスの塀のこちらに入ったことがなかったの!




ターナーが好んで、そして描いたというイングランドの風景...

天気が良かったので、わたしたちは敷地内を2時間かけて歩いた。
283ヘクタール(700エーカー)の敷地内には、鹿や羊、雁、などの群れが住んでいる。

敷地内に入るのは無料で、犬を好きに走らせる人、子供連れ、デート...などいろいろな人が好きな方向を向いて歩き回る。

家族と散歩に来たらしい、おしゃまな女の子が芝生がどこまでも広がる領地を眺めて、絶望的に「ここには何もないじゃない?」と言っていたのがおかしかった。
あなたはアリスか?

この何もなさを楽しむには、人には何かが必要なのである。それは何かなあ...もし彼女に説明するとしたら、わたしならどう言うかなあ...


ディズニーにこんな木が登場していませんでしたか...


こういった貴族のカントリー・ハウスはイングランドのいたるところに残っており、ナショナル・トラスト管理下のものも多い。
また、所有者の侯爵だの伯爵だの一家が、一部を公開しつつ、住まっているケースも多い。

的場昭弘先生は、著書『「19世紀」でわかる世界史講義』の中で、

「イギリスでは、なぜ過激な革命がなかったのか。それは、勃興する資本家階級が次第に権力を取り、市民社会的資本主義をつくり上げてったからです。
貴族階級である地主階級は、次第に資本家階級に駆逐されていきました。
他方、フランスでは、資本家階級が明確でないがゆえに、市民社会の発展ではなく、旧社会の復活と意地を常に抱えていたのです。今現在も超エリート、超高級官僚が存在します。
日本はとりあえずイギリス的に貴族階級を衰退させていきました。(十一章)」


と、書いておられるが、わたしの実感としては、英国の貴族階級は資本家とがっちり手を組み、あるいは資本家そのものとなり、今も隔絶した超リッチ特権生活を送っているように思うのだが、どうだろう。
わたしが的場先生の意を汲めていないのかな...
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国民食 フィッシュ&チップス




わたしが退屈そうにしているので、午後のクリーム・ティーに行きますかと言ってくれた夫が、早めに支度が終わった、お腹が空いた、早く出かけようと、急かす。

あれよあれよと早く到着したため、ランチを食べることになった。

わたしはフィッシュ&チップス、揚げ物万歳。

正直、この産業革命時からの国民食、まあこんなもんか、というお店は多々あれど、なかなか、これは! と感じるお店がない。
元はファストフードなので、こんなもんかと毒づきつつ食べるのが王道なのかなあ。
逆に日本人はなぜこんなシンプルなものがうまく作れないのか不思議に思うだろう...
日本でよく百貨店が開催している「英国展」で食べたほうがおいしいよ!




満腹でもスコンは諦められず...
ティーケーキをおまけにつけてくれたものの、さすがのわたしも食べられなかった。

今日は以上です(笑)
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the new look




今、AppleTVのミニシリーズでThe New Lookが放送されている。
昨夜が7話目(全10話)だった。

ネタバレなしの内容としては、第二次世界大戦中、ナチス・ドイツ占領下のパリで、クチュール界がいかに生き延びたか、ファッションの社会性や、なかでもシャネルとディオールにフォーカスした権謀術数ものだ。
ええ、ファッションものではなく、政治もの!




しかも実在したデザイナーや政治家の登場人物が全員大物で、ものすごくおもしろい。
まるで世紀末のウイーンのように、20世紀初めの天才がクリームの上澄みのように集まった時代!

どの登場人物も、単にずる賢かったり、偏狭だったり、英雄的だったりするのではなく、人間の多面性が、わりときっちり表現されている。

ディオールはインスピレーションの源もそうだが、家族との絆が強く、妹君が反ナチスのパルチザン(実話)で、強制収容所で生き延び、戦後、勲章を授けられた人物であることなども描かれている。

Juliette Binocheのなりきりココはさすがで、もうシャネル本人にしか見えない...シャネルを女性誌の特集にありがちな、美化しているだけではないのがいい!
あの日和見主義、変わり身の速さ、世渡り上手の罰当たり、究極のサバイバーである。
孤児状態からのし上がり、超有名人の男性からひくてあまた、50、60歳にもなってモテモで、20歳年下の男性と関係を持ったり、多くの愛人常にとっかえひっかえ、なんてうらやましい(そこ?)


第二シーズンも制作中で、ディオールは心身を消耗したのか、早くに亡くなってしまうゆえ、サンローランなどが出るのか?
ココはあの調子で好きなように生きて長寿ですけど!




このシリーズの他にも、現在進行中のシリーズとして最近わたしが特に楽しみにしているのは、英国のスパイものSlow Horses(邦題は『窓際のスパイ』)。
モサドもののTehranはどうなるのか。イスラエル製作ゆえ。次のシリーズはHugh Laurieが出るはずなのだが、わたしの立場としては見るべきではない。

そしてリメイクSHOGUN、最初は「オリエンタリズム、わたしゃ見ん」と断言していたのだが、片目を瞑りつつ(だって例えばランドスケープが日本らしくなかったりする!)つい見ています...真田広之演じる虎長(徳川家康がモデル)が、従来わたしがイメージしていた家康っぽくなくていい。
上手い俳優さんが多いのもいい。
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