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swan lake オープニング・ナイト2024 marianela nunez


ROHから拝借


またこの世のものとは思えない、煌びやかさの極地を見てしまった...
観客は誰も息をしていなかった...


ロイヤル・バレエの2024年『白鳥の湖』のオープニング・ナイト、今夜はこれを録画してないのか?! と残念なほど(毎回言っている気もする)だった。


主役の2人Odette/Odile--Marianela Nunez と Prince Siegfried--Vadim Muntagirov はもちろん、ソリストも、コール・ド・バレエも、最高の仕上がり(毎回言っている気がする)。


わたしはMarianela Nunez がロイヤル・オペラ・ハウスに出演するときは全部見るし、今までに何十回も『白鳥の湖』は見たが、毎回が今ままでで最高、なのはいかにして可能なのだろうか。

「科学理論の客観性を保証するためには、その仮説が実験や観察によって反証される可能性がなければならない」というポパーの定義があるが、あれにちょっと似ていないか?
永遠の自己刷新という意味で。

昨日までは知らなかったことを今日は知る、昨日までとは違う次元にアップグレードする、それなくしては可能ではないのでは? 
レオナルドあたりがそんなことを言っていなかったか?

古今東西、優れた芸術家、優れた科学者、優れたスポーツ選手、優れた求道者はみなそうなのでは?
つまり、誰しも成功体験にこだわってしまいがちだが、そこに留まってしまうと自己刷新は不可能になる、という宇宙の真理である。


Marianela 白鳥のオデットの、凍てつくような悲しみ。
角や余計な動きが全くない、動きの美しい粘り、呼吸の長さ、気の流れ、緻密さ、安定感、そこから導かれる自由さは(角をなくし、余計な動きをしない、というのが踊りの極意なのではないか。茶道や武道みたいですね)、それは黒鳥オディールの刃物か猛禽のような動きにも現れる。
あの関節のやわらかさ、身体の先までの解放といったら、見ていて爽快である。

言葉は追いつけません。

次回、4月1日が待ちきれないー




Odette/Odile--Marianela Nuñez
Prince Siegfried--Vadim Muntagirov
The Queen--Elizabeth McGorian
Von Rothbart--Gary Avis
Benno--Luca Acri
Prince Siegfried’s Younger Sisters--Isabella Gasparini, Sae Maeda
Act I
Waltz and Polonaise--
Mica Bradbury, Leticia Dias, Hannah Grennell, Leticia Stock, Leo Dixon, Téo Dubreuil, Nicol Edmonds, Valentino Zucchetti, Artists of The Royal Ballet
Act II
Cygnets--Mica Bradbury, Ashley Dean, Amelia Townsend, Yu Hang
Two Swans--Chisato Katsura, Mariko Sasaki
Swans--Artists of The Royal Ballet
Act III
Spanish Princess--Leticia Dias
Hungarian Princess--Hannah Grennell
Italian Princess--Ashley Dean
Polish Princess--Julia Roscoe
Spanish dance--Nadia Mullova-Barley, David Donnelly, Téo Dubreuil, Benjamin Ella, Giacomo Rovero
Czárdás--Leticia Stock, Valentino Zucchetti, Sierra Glasheen, Viola Pantuso, Charlotte Tonkinson, Yu Hang, Kevin Emerton, Joshua Junker, Harrison Lee, Francisco Serrano
Neapolitan dance--Madison Bailey, Taisuke Nakao
Mazurka--Isabel Lubach, Lukas B. Brændsrød, Katharina Nikelski, Sumina Sasaki, Harris Bell, Joonhyuk Jun
Act IV
Cygnets, Two Swans, Swans
As Act II
Conductor--Koen Kessels
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センチメンタルの色


こちらの、アカデミア橋から見る、夜明けの大運河と、
下の写真、ジョヴァンニ・ベッリーニの色がものすごく似ているなと思ったので載せる
ヴェネツィアの色なのである


前回は典雅なヴェネツィアとの別れを書き、それも真実なのだが、また別の真実がある(笑)

ホテルで世話になったことに心を込めてお礼を述べ、また来年! と白い海鳥(白いコートを着ていたので)のように颯爽と、しかも華麗に去ったつもりだったが、大運河をリアルト橋をくぐったあたりで、ボートの運転手さんに電話が入った。
運転手さんがわたしあてだと言う。

「シニョーラX、お部屋にメガネをお忘れです...」


宿泊初日の夜に、アマン・ヴェニスの名GM、L氏と再会し、一緒に街をはしゃぎながら歩いた時、愛用の白い大判ストールを失くしてしまった。
「もしホテル内で見つかったら」とレセプションに気軽に声をかけたつもりが、ホテルがほとんど総出で探し回ってくれたという痛恨のミスを犯した後だったの!


と、ボートはカ・ドーロの前に停留し、アマンのスタッフがボートを飛ばしてメガネを持ってきてくれるのを待った...
カ・ドーロの正面は、海上からしか眺められないので、まあこんなチャンスもなかなかないと言えばないものの。

水上で2台のボートが船腹をお互いに当てることなくギリギリまで近寄り、メガネの受け渡しをするのはなかなか見応えがあった。
「おお、これが地中海を我が海と呼んで、船を好きなように操った誇り高きヴェネツィア共和国の末裔か!」と感激し、わたしは救出される姫(婆)のような気分になったものである。

夫は呆れていた...


わたしは結構これでもしっかりしている方で、物をなくしたり、壊したり、道に迷ったり、時間に遅れたり、軽犯罪に巻き込まれたりということがない人だったのだけど...


サンタ・マリア・グラリオーサ・デイ・フラーリ聖堂の聖具室にある、
ジョヴァンニ・ベッリーニの『フラーリの祭壇画』
もちろん、実物は輝くように美しい。
ベッリーニ大好き


忍び寄る加齢のせいか、あるいはヴェネツィアがわたしを引き留めているのか。

きっと「忘れ物が多い日本人のシニョーラX」と、ホテルスタッフにあらためて記憶されただろう。

どうせずっと心もあそこに忘れてきているし...
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いつか海に沈む街




「美しさの他にはほとんど何も残っていない町」(ジョン・ラスキン)と別れの朝...




ヴェツィアは、わたしが「書けるはずだったのに書けなかった小説」のようなものだ。
「これくらいでいいなら、書ける」と、わたしは思う。しかし、絶対に書けない。

その面影に名残を惜しみつつ、水上タクシーはアマン・ヴェニスの入っているパパドーポリ宮殿を出た。

美しいファサードは角度を歪め、手を振ってくれる人と一緒に、大運河のカーブに沿って見えなくなった。




ボートは緑色の布のような大運河をゆったり進み、一日中観光客が鈴なりになっているリアルト橋の下をくぐる。

少し進むと、右手に、水面すれすれに建つカ・ドーロが輝いている。

まだシーズンには早く、大運河にはボートやゴンドラも少なめだ。




やがて、右折し脇水路、ノアーレ運河に入り、そこを通り抜けたらもう海。
(上の写真は反対方向で乗船した時のもの)

聖堂が鐘をいっせいに鳴らす。
ボートはそれをかき消すように急に機械の音とスピードを上げるが、途中一か所、再びスピードを再び落とす水域がある。




振り返ると街の輪郭がぼやけて、塔だけがいつまでも精一杯存在を示している。

左右に杭の打ってある水路に入ると、ボートはさらにスピードを上げ、水上で跳ね上がるように進む。
海鳥が悔いの上に佇んでいる。


死者の島、サン・ミケーレ島を右手にすぎるころには、もうあの街は薄いベールをかけたような空気の向こうに沈み、やがて見えなくなった。
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バロックの天上界かロココの天上界か


ティツィアーノ『聖母被昇天』サンタ・マリア・グロリオーサ・デイ・フラーリ聖堂
一番下の写真と比較して下さい。


この世は暗く苦い。
われわれは、いま、ここ、ではない、どこか遥かかなたの楽土を夢見る。


ヴェロネーゼで覆われる「菩提寺」サン・セバスティアーノ聖堂
左のオルガンの扉まで...お墓はこの右手にあって、現在修復中


ヴェネツィア美術はヴェネツィアで見るべき、とよく言われる。

まあどんな美術も本来はそうなのかなと思うが、有難いことにヴェネツィアには本来の場所(聖堂、同心会、パラッツオと呼ばれる邸宅、政府の建物など)に、よく美術品が残っている。

多くが世界中の大美術館に散逸していることが多い現状のなかで。


ヴェロネーゼが『エステル記』を描いた天井画


そんな幸福な環境が多いヴェネツィアの街歩き、以前にもなんども書いたことがあるので、今回はある日訪れた2つの聖堂の話にかぎって描きたい。


一つはバロック、ヴェロネーゼ(のお墓もある)の「菩提寺」サン・セバスティアーノ聖堂。

もうひとつはティエポロのジェズアーティ聖堂である。

両方とも、繁華街からは離れていて、海に近く、2月の今は特にひっそりとしているのがいい。


ティエポロが彩ったジェズアーティ聖堂の天上画、中央は『ロザリオの制定』



同じくジェズアーティ聖堂内のティエポロ


ヴェロネーゼを見てからティエポロを見て感じたのは、バロックのヴェロネーゼは、人物にどっしりと重力を感じ、とてつもなく安心感がある。

一方でティエポロは透明感があり、軽やかでふわふわ無重力を感じ、上昇気流に乗れ、吸い込まれるような気分になる。


ティエポロのフレスコがあるベッドルーム


こちらはティエポロではないけれど...


わたしが滞在しているパパドポーリ宮には、ヴェネツィア最後の巨匠、ロココ期のティエポロのフレスコがたくさん残されており、見飽きない(首が痛くなる)。


例えばヴェネツィアが産んだルネサンスの巨星、ティッツイアーノの作品を、ヴェネツィアの湿潤で明るい光が水面に反射する教会の祭壇で見るのと、ロンドンのナショナルギャラリーで見るのは全然違う経験になる。




こちらもサンタ・マリア・グロリオーサ・デイ・フラーリ聖堂にある、ティツィアーノ『ペーザロの祭壇画』、奥に巨大な円柱体(シャフト)が描かれている理由は、聖堂内に建築として実際設置されている円柱体が、絵の中にまで続いている効果を狙ったものだ。
この場にあってこそ。




アカデミア美術館には眩しいくらいの作品がまとめて置いてあり、もちろん見学するのは至上の喜びではあるが、街をぶらぶら歩いているときにひょいと入った教会に「あ、またティントレット...」というかたちで作品と出会えるのは、なんというか、狂おしいほどの喜びである。

臨終にどんな天上界を見たいか...

人間の可憐さにじんとして涙が出る。
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