コトバヲツグムモノ

「口を噤む」のか「言葉を紡ぐ」のか…さてどちらの転がっていくのか、リスタートしてみましょう。

真カ研月例会 6月

2008-06-19 00:01:18 | 真宗カウンセリング
6月月例会

今日は真宗カウンセリング研究会月例会に参加してきました。
ちょっと所用で遅れての参加でしたが、ちょうど着いた時が皆さんのチェックイン(自己紹介)が終わったところ。ということで、座るなり私のチェックインとなりました。
まったく気持ちが落ち着かないままでしたので、今日の流れと「気持ちがバタバタしています」という今の気持ちだけ話しました。

今日は、先月から始まった論文輪読の「一致」の項目。
内容は変にまとめると文脈が変わって伝わってしまう恐れがあるくらい、濃い内容なので省きます。

輪読と参加者の分かち合いを通じて感じたことを記しておこうと思います。
「一致」のことでいつも私が悩まされるところは、否定的な感情が起こったときにそれを「自分の中にある気持ちだから」といってそのまま表明することの是非があるのですが、この論文の中では不一致な言葉で誤魔化したりするよりは、純粋に表明することを勧めています。
ただ、何でもかんでも思ったとおり表明することを勧めているわけではありません。
不一致な状態である自分の気持ちに巻き込まれて、関係を損なうことを鑑みてのことだと思います。

この部分を話し合った中で、「感情の一致」と「意識の一致」という言葉を使って先生が話されました。時間が足りなかったので、このことを聴きなおすことが出来なかったのですが、私なりの受け取りとしては、自分の中で起こってきた「感情」に素直になることは「一致」ということとは少し違うのかなと。
たとえば、腹が立った時に相手のことをお構い無しに怒鳴ること…これは怒りたいという感情に素直に従っていることなのかもしれませんが、感情を考えなしに表に出すことであって「一致」とは違うのかなと。
対して、腹が立っている自分の気持ちを「意識」して「あぁ自分は今腹が立っているんだ」と認識すること。それを意識した時に「これを相手に伝えたい」という感情に従って伝えること、あるいは「これを伝えると自分も嫌な思いをするから伝えないで置こう」という感情に従って言わずにいること。
こういう、自分の意識…刻々と流れによって変わっていく意識を受け止めて、それに対して素直であるという事が「一致」なのかなと。
すぐにコロコロ変わっていく自分の気持ちを全部処理しようと思ったら、一時の気持ちを表明しきらないと次に起こる感情に待っててもらわないといけませんもんね。変わったら、変わったで、一瞬前の感情に捉われることなく、何らかの行動を伴いたくなったところに付き合っていけばいいのかな。

ちょっと前までは、相手に対する否定的な感情を押さえずに表明することを”しなければならない”と思っていましたが、それはちょっと違いましたね。

あと、仮に否定的な感情が生まれたときにそれを「相手に伝えられる関係」があるということも話題になりました。これは私が輪読の中でこだわって、混乱したことにつながるのですが、この「一致」ということを論文のテーマになっているのは「援助的関係を作っていくには」ということですので、これから「関係を作っていく」ために「一致」を大事にしようというのに、特定の「関係」がないと伝えられないというのはどういうことかと。

「援助的関係」を目指すには「一致」ということはもっとも重要なことであるけれど、ここには「自分でがんばって自己一致を意識する」ということと、「相談などの関係の中で、自己一致出来ていると感じられる時がある」という違った流れがあるようです。
ここにも、「一致した状態にならないといけない」という決め付けが私の中にありましたね。

こうした勉強会を通じて、自分のこだわりや決め付けを知らされる…すぐにそれが解消できるかどうかはわかりませんが、まずは知己ということが大事ですから。

ほかにも感じたことがあったのですが、長くなってきたので今日はここまで。