コトバヲツグムモノ

「口を噤む」のか「言葉を紡ぐ」のか…さてどちらの転がっていくのか、リスタートしてみましょう。

真カ研月例会 6月 その2

2008-06-20 02:16:29 | 真宗カウンセリング
昨日の続きです。

1日たって、昨日書き込んでいた感じからはかなり離れていってますが、ちょっと書ききれなかったところで書きます。

自分の中で起こってくる感情を、自分で意識してみて、そこで起こってくる「こうしたい」という気持ちに、偽りなく素直に表明する。
基本的には、こういうことを「自己一致」といえるのでしょうし、「開いている」という言い方も今までよく聞いてきました。
しかし、今回読んだ論文の中には「透明」という表現がありました。

「一致」していれば、自分が透明であって相手に全て知られることになっても大丈夫なんだということでしょうか。
この心境は今の私にはとても難しいというか、無理ですね。

自分の中でいろいろと経過していく中で、「あぁ、この人との今の関係なら大丈夫」ということで表明できることもあるのですが、そういう過程の考えすらも相手に伝わること、開いていくことができるというのは想像できません。
まだまだ、特定の条件下でしか「開けない」ですね。

ただ、今書いてきたことは相手に表明するという行為の伴うもので、その前段階をまず問題にしないと意味がないですね。
それが、前回書いた「意識する」という時点での「自己一致」

自分の心を偽っている時点で問題外ですから。
この辺が(まだまだ)私の課題。

自分では「一致」していると思えることでさえ、本当の「奥の奥」なのか、妥協や計算の混じったものなのか、自己判断が甘いです。

ただ、いろんな関係の中で「あぁ、これが自己一致ということか」という自分を引っ張り出していただいた経験・感覚はありますから、そこは経験と訓練で、そこに立てるようになることですね。


あともうひとつ、こういう「一致」できる関係・環境にかんして、自分の中の思いを話したのですが、「カウンセリングや法座だと一致できる」「商売や仕事など、利害関係があると自分の気持ちを隠したり誤魔化したり、不一致になる」「そのほうが良いという訓練をつんできたので、不一致の癖がついている」ということを言いました。
しかし、「それも思い込み・決め付けじゃないか?」「利害関係の中でも一致できることは”ある”」ということを教えていただきました。

確かに思い込みであり決め付けですね。
さらに言うなら、そういう関係の中でも「一致」を目指すことより、「そういう関係では一致は無理」とあきらめてしまうほうが楽であり、自分に都合がいいんだなと。
まったく、困った自分だと、気づきをいただきました。