今日は京都支部の法座でした。
ネットで増井先生の法話を見て初参加された方や、神奈川からお参りされた方など、22名のお参り。
「しんじんのうた」のお勤めの後、増井先生のご法話をいただき、あとは時間いっぱいまで座談会。
ご賛題で「二種深信」のお話を聞かせていただいているのですが、座談になると「自分の思い」に捉われてしまう聞き方というのがあります。
「自身は現にこれ罪悪生死の凡夫、曠劫よりこのかたつねに没しつねに流転して、出離の縁あることなし」と、すでにこの私というのは「つねに没」「つねに流転」つまり迷いまくっているわけですよね。
その迷いから「出離の縁あることなし」なんだと。
しかし、自分の聞き損ないがなんとか変わって「凡夫」なんだと知れるようになると思ったり、がんばって聞き続けて「無常だ」としれるようなるのを待ったり…いつか出離の縁が来ることを待っている。
この自力の念仏がお聞かせにより他力に変わるのを待とうと思ったり、「あぁ、いいことを聞いた」と次のご縁の種にしようと収めてしまったり…いま、ここにかかっている「どうか聞いておくれよ」の願いを横に置いてしまう。
今まさに「お念仏」が口から飛び出していても、心では「今死ぬと思えんからこのお念仏では…」などと自分の心を格闘してしまう。
その口から飛び出しているお念仏を自分の耳で聞かせてもらいなさいと言われても、相手にするのは「機ざまが変わっているかどうか」
私の方は、どこまで行っても「出離の縁あることなし」だと断定されているというのに。
で、これは何も他の人の話じゃなくて、自分の聞き方はどうだろうという話で、自分自身が最初から「そのごとくに聞く」ということが出来ていたわけじゃないですね。
自分の聞き方が「正しくない」ということを何度も教えられ、それでも「少しは聞けるようになったかな」という自惚れを折っていただき、「自分に出来ることは邪魔しかない」と出来ることがあるという思いを剥ぎ取っていただいて、そうして全てお膳立てしてもらったところに頭を下げるだけだった。
まったく、すべていただきもので、自分でこしらえたものは役に立たない…それどころかそれが邪魔をしているというのだから。
自分の心持や、思いに向いている…向いてしまう…向かざるを得ない…そんなものにこだわるのをやめて(亡くすことはできないしね)、そう思わしてくれるきっかけとなった本願に心を向けるだけ。
そう、自分を相手にしてしまっているということでさえ、自分で気づいたんじゃなく、法に出会って気づかせてもらった。
具体的に言うと、法座で聞かせてもらうご法話や、座談での先生のお話、友同行の声を、自分の思いや感情を交えずに聞くということ。
先生が「無常というのは、今命がなくなるということだ」と言われた時に、そう思えるとか思えない自分だとか考え出すのじゃなく、そのままの言葉で「無常というのは、今命がなくなるということ」と繰り返す。一度形だけ繰り返したところで何も変わるはずがないから、もう一度繰り返してみる。理解してるとか、腑に落ちるとか、そんなことも横に置いといて、「無常というのは、今命がなくなるということ」となんどでも繰り返し声に出して言う。自分では知るはずがないことを、先生の姿を借りて伝えてもらっていることを繰り返し口に出してみる。自分の口から飛び出してくる言葉を、もう一度自分の耳で聞いてみる。何度でも繰り返し、口に出して聞いてみる。それでも湧き出してくる「これでいいんだろうかという」という思いも、「出てきたら駄目」「これじゃまだ足りん」などと相手せずに、無視して自分の口から出てくる言葉だけを相手にする。無常を知るというのは、無常と感じるのではなく、自分の知恵をはるかに超えた阿弥陀様が私の姿を見通して教えてくれることを、思いを抜きにして聞かせていただくこと。
そうすれば、「無常を見つめなさい」と言われたなら、それが「私のいのちが今なくなること」と、理解や知識を超えて響いてくる。
これはなにも無常ということだけじゃなく他に知らされる私の「機ざま」や法の姿、「願い」に対しても同じこと。自分の思いを挟まずに、聞かせてもらうという事。
最初は意識して訓練的にやってみるのもいいかもしれない。
ただ先生を絶対視して、一字一句覚えようという事では決してない。ましてや洗脳でもない。
自分の思いを交えずに、「聞く」に徹する訓練。
そうやって「聞いた」上で私がどう感じているかを見つめなおせばいい。
ちゃんと「聞く」まえに、自分で納得したり理解したつもりになることが間違いなのだ。
仏法は聴聞に極まるというのは、こういうことだと思う。
ネットで増井先生の法話を見て初参加された方や、神奈川からお参りされた方など、22名のお参り。
「しんじんのうた」のお勤めの後、増井先生のご法話をいただき、あとは時間いっぱいまで座談会。
ご賛題で「二種深信」のお話を聞かせていただいているのですが、座談になると「自分の思い」に捉われてしまう聞き方というのがあります。
「自身は現にこれ罪悪生死の凡夫、曠劫よりこのかたつねに没しつねに流転して、出離の縁あることなし」と、すでにこの私というのは「つねに没」「つねに流転」つまり迷いまくっているわけですよね。
その迷いから「出離の縁あることなし」なんだと。
しかし、自分の聞き損ないがなんとか変わって「凡夫」なんだと知れるようになると思ったり、がんばって聞き続けて「無常だ」としれるようなるのを待ったり…いつか出離の縁が来ることを待っている。
この自力の念仏がお聞かせにより他力に変わるのを待とうと思ったり、「あぁ、いいことを聞いた」と次のご縁の種にしようと収めてしまったり…いま、ここにかかっている「どうか聞いておくれよ」の願いを横に置いてしまう。
今まさに「お念仏」が口から飛び出していても、心では「今死ぬと思えんからこのお念仏では…」などと自分の心を格闘してしまう。
その口から飛び出しているお念仏を自分の耳で聞かせてもらいなさいと言われても、相手にするのは「機ざまが変わっているかどうか」
私の方は、どこまで行っても「出離の縁あることなし」だと断定されているというのに。
で、これは何も他の人の話じゃなくて、自分の聞き方はどうだろうという話で、自分自身が最初から「そのごとくに聞く」ということが出来ていたわけじゃないですね。
自分の聞き方が「正しくない」ということを何度も教えられ、それでも「少しは聞けるようになったかな」という自惚れを折っていただき、「自分に出来ることは邪魔しかない」と出来ることがあるという思いを剥ぎ取っていただいて、そうして全てお膳立てしてもらったところに頭を下げるだけだった。
まったく、すべていただきもので、自分でこしらえたものは役に立たない…それどころかそれが邪魔をしているというのだから。
自分の心持や、思いに向いている…向いてしまう…向かざるを得ない…そんなものにこだわるのをやめて(亡くすことはできないしね)、そう思わしてくれるきっかけとなった本願に心を向けるだけ。
そう、自分を相手にしてしまっているということでさえ、自分で気づいたんじゃなく、法に出会って気づかせてもらった。
具体的に言うと、法座で聞かせてもらうご法話や、座談での先生のお話、友同行の声を、自分の思いや感情を交えずに聞くということ。
先生が「無常というのは、今命がなくなるということだ」と言われた時に、そう思えるとか思えない自分だとか考え出すのじゃなく、そのままの言葉で「無常というのは、今命がなくなるということ」と繰り返す。一度形だけ繰り返したところで何も変わるはずがないから、もう一度繰り返してみる。理解してるとか、腑に落ちるとか、そんなことも横に置いといて、「無常というのは、今命がなくなるということ」となんどでも繰り返し声に出して言う。自分では知るはずがないことを、先生の姿を借りて伝えてもらっていることを繰り返し口に出してみる。自分の口から飛び出してくる言葉を、もう一度自分の耳で聞いてみる。何度でも繰り返し、口に出して聞いてみる。それでも湧き出してくる「これでいいんだろうかという」という思いも、「出てきたら駄目」「これじゃまだ足りん」などと相手せずに、無視して自分の口から出てくる言葉だけを相手にする。無常を知るというのは、無常と感じるのではなく、自分の知恵をはるかに超えた阿弥陀様が私の姿を見通して教えてくれることを、思いを抜きにして聞かせていただくこと。
そうすれば、「無常を見つめなさい」と言われたなら、それが「私のいのちが今なくなること」と、理解や知識を超えて響いてくる。
これはなにも無常ということだけじゃなく他に知らされる私の「機ざま」や法の姿、「願い」に対しても同じこと。自分の思いを挟まずに、聞かせてもらうという事。
最初は意識して訓練的にやってみるのもいいかもしれない。
ただ先生を絶対視して、一字一句覚えようという事では決してない。ましてや洗脳でもない。
自分の思いを交えずに、「聞く」に徹する訓練。
そうやって「聞いた」上で私がどう感じているかを見つめなおせばいい。
ちゃんと「聞く」まえに、自分で納得したり理解したつもりになることが間違いなのだ。
仏法は聴聞に極まるというのは、こういうことだと思う。